「……はいはい、じゃあ何も無ければまた明後日の夜に連絡しますんで。うぃっす、お疲れ様っした」 通信を終えた男は持ち込んだDVDを再生し成人向け雑誌を広げ酒にツマミと、自堕落で退屈な時間を満喫し始めていた、――その、矢先。 コン、コン。 誰も来ないはずの、全てを知っている橙花まゆですら無い物として扱っているこの小屋に、突然の来訪者。 「……誰だ? 翠菊さん、ですかい?」 返事は、無かった。 「……?」 男は不審に思いながらも、今この島には女子供しか居ないのだという驕傲心のままに部屋の扉を開けそのまま廊下を進み玄関の扉に向かう。 「誰だ?」 そして再び問うと、今度は返事があった。 (紫苑あさみ)「あ、あの……紫苑です。橙花様の、友人の……」 「あ、あぁ何だ紫苑ちゃんか。どうしたんだいこんな時間に……」 男は普段、橙花まゆの御付の者として働いており学校の行き返りや行事等で紫苑あさみとは面識があった。 (紫苑あさみ)「え、えっと……翠菊さんが、ここに行くようにって……」 「翠菊さんが? ……まぁまぁ、立ち話もなんだ。中に入るといいよ」 優しい物言いで男は扉の鍵を外し彼女を招き入れる。 「まったく翠菊さんも人が悪い。わざわざ人をよこさなくたって内線電話でいいのにねぇ」 男の声は、少しだけ上擦っているようにも聞こえた。 「ゴメンねぇ紫苑ちゃん、こんな夜中に来てもらって……」 その気色悪い猫なで声の理由を、紫苑あさみは知っていた。 「で、翠菊さんは何て言ってたんだい?」 自分の肩に廻された男の腕の意味を、紫苑あさみは知っていた。 「あの、えっと、【私と一緒に】……」 男は体裁を取り繕いながらも、翠菊透華と事前に打ち合わせていた内容を思い返していた。 ――確か、翠菊さんが紫苑ちゃんを連れて来る手筈じゃなかったっけ? その後で、俺はゆっくりと一晩かけてこの娘をいただくって話で…… 「【死んでください】」 ――っ!? その冷めた声は、いったい誰のものだったのか。 男が事を理解する前に、全ては終わっていた。 「かはっ……」 頭部に、激痛。 振り返るとそこには鉄パイプをお守りのように抱く、一人の少女。 「てめ、え……っ!?」 視線は完全にその少女を捉えていた。 いや、――その少女に、捉えられていた。 「あ、がは……」 だから、躱せない。 紫苑あさみが隠し持っていたナイフを、男は躱せない。喉元に突き刺さる。 「あ、ひゃ……」 ぷくぷくと間抜な音を立てて泡立つ鮮血が刃を伝い彼女の指先を穢す寸前、紫苑あさみはナイフを横一文字に薙いだ。 「が、あ、は……」 男はそのまま紫苑あさみにもたれかかり、まるでもう一つ出来た口のように見える傷が唾のような緋い絲を曳いて赫黒い体液を嘔吐する。 (青桐みすず)「あ、あさみっ……」 やがて男がずり落ち床に横たわると、血塗れの少女は俯いたまま口を開いた。 (紫苑あさみ)「……来ないで」 (青桐みすず)「……」 静寂が、二人を分かつ。部屋から流れて来る下卑たDVDの音声が、辛うじてこの醜い世界は現実なのだと教えてくれた。 (紫苑あさみ)「……ゴメンね」 貌を上げた彼女は涙を浮かべながら、自嘲気味に微笑む。 (紫苑あさみ)「ゴメンね、みすずちゃん。こっちに来ると汚れちゃうから……うん……汚いのは、私だけで十分だよ……だから……」 (青桐みすず)「そんな、そんな事無い、よ……あさみが汚いだなんてっ……」 自身の下に駆け寄ろうとする青桐みすずを、紫苑あさみは潤んだ眸で止めた。 (紫苑あさみ)「ううん、やっぱり私は……それに、みすずちゃんまで汚れちゃったら明日から、大変だよ? 私と違ってみすずちゃんには明日が、……ある、んだから……」 (青桐みすず)「あさみっ……」 (紫苑あさみ)「ゴメンね、みすずちゃん……こんな事に巻き込んじゃって……」 紫苑あさみはそう謝罪しながら、通路に置いてあった鉄パイプで男の身体を粉砕してゆく。 (紫苑あさみ)「みすずちゃんは、こうならないでね……」 一つ、また一つ。鈍い音が響く。 腕が折れる。足がひしゃげる。まるで彼女の憎しみが全て、刻まれるかのように。 (紫苑あさみ)「うう、うぅう……」 そして最後に、大振りの鉈で、頭部を両断した。 (紫苑あさみ)「うぅ、うわぁ、あぁあああ……」 そうやって紫苑あさみは青桐みすずが唯一振るった暴力――鉄パイプで出来た頭部の傷を完全に上書きすると、男の身体を弄り始める。 (青桐みすず)「あさみ、いったい何をっ……」 その手には、鍵があった。 (紫苑あさみ)「やっぱり。……橙花様が、この人もマスターキーを持ってるって言ってたから……」 (青桐みすず)「マスター……キー……?」 (紫苑あさみ)「うん。……コレで、館どころかこの島にある扉の鍵なら全部開ける事が出来るから……必要だったの。……ね、みすずちゃん。申し訳ないんだけど、タオルか何かを持って来てもらっても、いい?」 (青桐みすず)「あ、うん……奥の部屋を探してみるね」 青桐みすずは床一面に広がった体液を出来るだけ踏まないようにしながら男の亡骸を超えると奥の部屋へと入った。 (青桐みすず)「……」 まずはDVDを止めようとも考えたが、その後に訪れるだろう寂寞に耐えられる気がしなかった彼女は当初の目的だったタオルを探し始めた。 (青桐みすず)「……」 探しながら青桐みすずは一人、通路に残された紫苑あさみの事を考える。 ――どうして、こうなってしまったのだろうか? 二人はただ、一緒に居たかっただけなのに。 それ程までに、許されない関係だったとでも? 青桐みすずには、分からなかった。 だって、彼女にとっても、それは普通の事だったのだから。 ――結局、人間は他人の【普通】を受け入れる事は出来ても、理解する事は決して出来ないという事なの? なら、ワタシのこの思いも、決して…… (青桐みすず)「う……うぅう……」 思考の隅に突き立てられた爪先は、怖気。 彼女はソレを振り払うかのように、必死でタオルを探す。 (青桐みすず)「あった……」 そうして目的のものを見つけた時、彼女は自身が酷く汗ばんでいる事に気づいた。 (青桐みすず)「はぁ……はぁ……はぁ……」 眩暈。頭痛。止まない耳鳴り。 まるで、自分が自分ではないような感覚。 あぁ、ワタシみたいな人間は、結局こうなるしかないの? 誰も彼も所詮は他人、その笑顔は嘲笑、彼女だって、きっとワタシの気持ちを知ったら―― 【もー、みすずったら!】【え、……本気?】【嘘、だよね……?】 彼女は優しいから、それでも多分ワタシを許してくれるだろう。友人として、きっとずっと付き合ってくれるだろう。 でも、――ワタシと、同じ気持ちにはなってくれない。 嫌だよ、そんな笑顔、見たくないよっ……! (青桐みすず)「あさみ、遅くなってゴメン……タオル、あったから……」 おぼつかぬ足取りで、青桐みすずはようやく通路に戻った。 そして振り向いた紫苑あさみの表情は、凛としていた。 (紫苑あさみ)「……ありがとう」 外は、静かだった。いつの間にか、風もやんでいる。物音を立てればそのまま館にまで届いてしまいそうな程の静寂。 館のエントランスホールに入ると、紫苑あさみは二階へと繋がる階段の、真裏へと向かった。 (青桐みすず)「ちょっと、あさみ?」 慌てて青桐みすずが後を追うと、階段の陰に隠れて一つの扉があった。 (青桐みすず)「これは……」 (紫苑あさみ)「ここの鍵も、確かマスターキーで開くって橙花様が……」 ――カチリ。 鍵は、何の抵抗も無く素直に開いた。扉を静かに開け二人は足を踏み入れる。 (青桐みすず)「ねぇ……ここ、何の部屋なの?」 前に居るはずの紫苑あさみの気配を感じるのがやっとという程の暗闇の中、青桐みすずは手探りで狭い通路を進んだ。 (青桐みすず)「きゃ……」 突然、電灯がついた。 (紫苑あさみ)「ゴメンね、驚かせちゃった……?」 そこは窓すら無い閉塞的で陰鬱な雰囲気の部屋だった。ぼんやりと仄かに灯る照明は全体を照らすには心許無く、しかしここがどんな事をするための場所なのかは青桐みすずにも即座に理解出来た。 (青桐みすず)「あ……あ……」 何故なら壁一面には大小様々な拷問器具やロープ、三角木馬等が置かれていたからだ。 (紫苑あさみ)「ゴメンね、急にこんな部屋に連れて来られても、困るよね……」 (青桐みすず)「え、いや、うん、だ、大丈夫、だけど……」 聞けば、この部屋は元々橙花まゆの父親が愛人と過ごすために作った隠し部屋なのだという。それを橙花まゆが手を加え、遊戯に耽るためだけの密室に仕立て上げたのだ。 (青桐みすず)「え、えっと、じゃ、じゃあ、あさみもここで……?」 ――こくり、と恥ずかしげな表情を浮かべ紫苑あさみは頷いた。 (紫苑あさみ)「橙花様は優しいから、傷はほとんどついてないけど、ね……えへへ」 (青桐みすず)「傷って、アナタ……」 すると紫苑あさみははみかみながら鼠蹊部を擦り、踵を返すと部屋の奥へと消えていった。 (青桐みすず)「あ、あさみっ……」 (紫苑あさみ)「ちょっと、待ってて……」 (青桐みすず)「……」 思わず、壁に掛けられた器具を見てしまう。 突き刺す形状。抉る形状。切り裂く形状。くびる形状。挟み込み、押し潰し、粉々にする形状。 どう考えても、相手に苦痛を与える事しか出来ない道具の数々。 愛人と使っていたと、恋人と使っていたと彼女は言うけれど、ソレは果たして愛情と言えるのだろうか? (青桐みすず)「でも……」 ――でも、ソレはワタシも同じだ。 ワタシの愛情が彼女に触れた瞬間、ソレは彼女を傷つけるだろう。 何故なら、それはそういうものだからだ。 どれだけ【苦痛も愛情表現の一つ】と上辺の言葉を繕っても、彼女が苦しくて泣いてしまう事に変わりはないのだ。 なら、どうすれば、どうしたら、彼女は苦しまずに済むのだろうか。 この密室に、はたして答えが? (紫苑あさみ)「……お待たせ」 (青桐みすず)「っ!!!」 ふいに後ろから掛けられた声で我に返り振り向くと、そこには紫苑あさみの姿。 見れば彼女は、右手にナイフを左手には小瓶を持っていた。 (青桐みすず)「あさみ、ソレっ……!?」 (紫苑あさみ)「行こう、みすずちゃん。コレで、……だ、大丈夫、だから」 館内は、相変わらず沈黙に満たされていた。 頑強なはずの階段が、軋んで聞こえる程だった。 (紫苑あさみ)「部屋は……やっぱり、翠菊さんのところしか空いてないよね」 部屋で待っていたのは、現実。 床に咲く血痕と、虚ろな眼で呆ける翠菊透華の亡骸。 (青桐みすず)「それで……これから、どうするの?」 (紫苑あさみ)「うん……えっとね、私はここで、死のうと思うの」 (青桐みすず)「っ……、う、うん……」 そうなってしまうのだろう、それは分かっていた、それが彼女の覚悟なのだと。 (紫苑あさみ)「あ、でもねみすずちゃん、安心して。みすずちゃんには、ちょっと手伝ってもらうだけだから。私が出来るところまでは、全部私がするから、穢れるのは私だけだから、ね……」 そう言って悲観に口元を歪ませそれでもうっすらと微笑んだ紫苑あさみは、儚くも美しい。 筋書きは、非常に単純だった。 翠菊透華の差し金で男に襲われそうになったが、無我夢中で抵抗した時に誤って死なせてしまった。 館に戻った紫苑あさみは、復讐心で翠菊透華を殺害してしまう。 我に返った彼女は、自殺する事を決意。遺書を残し実行した。 (紫苑あさみ)「私を襲わせようとしていた事は事実だし、翠菊さんの事を知ってる人からすれば信憑性は感じられるハズ。橙花様には、申し訳ないけれど……でも、やっぱりもう私は一緒には居られない、から……」 (青桐みすず)「あさみ……」 この島に残るのは、高校生のみ。しかも互いの関係性は殺人の因果と結びつけられるようなものではない。それでも奇異の眼で見られてしまう事は避けられないだろうが、翠菊透華と船発着場の男、そして橙花まゆの関係を警察が知れば事件自体は収束の方向に向かうだろう。なにしろそれだけの影響力が橙花まゆの一族にはあるのだ。あとは、時間が少女達の疵を癒してくれる事を願うばかりだ。 (青桐みすず)「じゃああさみ、さっきの小瓶は……」 (紫苑あさみ)「うん、……毒薬だよ。橙花様のお父様が薄めて愛人に飲ませてたって、前に聞いた事があって……」 (青桐みすず)「薄めてっ……!?」 驚愕の青桐みすずを見て、紫苑あさみは小瓶の蓋の部分を細い指でつまみ、そのまま持ち上げて軽く振った。 色は、紫。表面素材はある程度の厚みがありながらも透過する可視放射が濁りを生むことはなく、まるで紫水晶のように麗しかった。蓋は雫のような形状で上方に鋭く尖り、小瓶はまるでチェスの駒のよう。 (紫苑あさみ)「薄めて飲めば、麻酔注射をされたみたいに痛みを感じなくなって、でも触られただけでとても気持ちよくなるんだって、橙花様が言ってた。もっとも私は、経験したことがないけれど……」 (青桐みすず)「それを……薄めずに飲むと、どうするの……?」 (紫苑あさみ)「そのまま飲むとね、痛み以外の感覚も何も感じなくなって、そのうちに息をするために必要な筋肉も麻痺して、そのまま苦しむことなく眠るように死んでしまうんだって」 (青桐みすず)「じゃあアナタ、それを飲んでっ……!」 人を殺してしまった罪の意識に苛まれ、毒薬で自らの命を絶つ。青桐みすずは漠然と、そんな流れを思い描いていた。しかし―― (紫苑あさみ)「……まさか」 彼女は首を横に振ると、悲愴感の無い満面の笑みで自らへの裁きを言い渡す。 (紫苑あさみ)「私にそんな死に方なんて、許されないよ?」 途端に怖気が青桐みすずの背筋を這い上る。 (青桐みすず)「っ……!」 眼前に佇む華奢なはずの少女のシルエットがぬらりと膨張して、青桐みすずは首を締めつけられるかのような感覚に意識を留まらせるのがやっとだった。 (紫苑あさみ)「そうよ、まずはこの穢れた身体を綺麗にしなくちゃ、私、死ねないの……このままの身体なんて、橙花様に見られたくないのっ……綺麗に、まずは綺麗にしなくちゃ……」 (青桐みすず)「ね、ねぇ……大丈夫? 本当に、コレでいいの……?」 橙花まゆ宛の遺書を書き終え、薄めた毒を口にしてベッドに横たわる紫苑あさみに、彼女が掛けられる言葉はその程度だった。本当は大丈夫なわけがないし、これでいいわけがない。それでも、もはや誰にもどうすることも出来ないのだ。 (紫苑あさみ)「うん……うん……大丈夫だよ……何だか、不思議な感じ……自分で自分を触ってるのに、まるで他人の、みたい……何も感じないの……」 彼女はそう言いながら、自らの手の甲に爪を立て皮膚を裂いた。爪の内側が抉れた肉片で埋まり疵口から血が滲んでも、彼女はただ不思議そうにその光景を眺めているだけだった。 (青桐みすず)「あさみ……」 (紫苑あさみ)「ねぇ、みすずちゃん……ここからは、さすがにきついだろうから……もう、お部屋に戻ってもいいんだよ……毒を飲んでも狙い通り感覚がなくなっただけで意識ははっきりしてるしちゃんと身体も動くし……あとはもう、私だけで出来るから……」 (青桐みすず)「……」 確かに紫苑あさみの言う通り、ここからは先は恐ろしい光景が繰り広げられることとなる。青桐みすずも正直、話を聞いた時点で既に最後まで直視出来る自信がまったくないことは理解している。そしてまた、ここに踏み止まることを決めてしまえば途中で逃げ出すことは許されないということも。それは、これから行われる彼女の決意を踏み躙ることになってしまうのだから。でも、それでも―― (青桐みすず)「ワタシ、……残るよ。最後まで、ちゃんと」 彼女は、選んだ。 (紫苑あさみ)「みすずちゃん……」 (青桐みすず)「だって、このまま……このまま、一人であんなこと、させられないよ……今だって、【何で、どうして】って……ワタシ、あさみに死んで欲しくなんてないよっ……」 (紫苑あさみ)「でも、それは……」 (青桐みすず)「分かってる、分かってるよ! もう、……あさみは、決めたんだよね……だから、ワタシも決めたの。最後まで、最期までちゃんと見届けるって」 (紫苑あさみ)「みすずちゃん……」 (青桐みすず)「だって、だって! そうしないと、あさみがどんな顔で、どんな思いでいなくなっちゃうのかっ! 誰も知らないで終わっちゃうじゃない! そんなのダメだよ! 絶対にダメ! そうだよ、橙花さんだって知りたいと思うハズだよ、遺書だけじゃ分かるのはここまでだもん! ここから先のことは伝わらないよ、だからワタシ、見てるから! そして……もし橙花さんが知りたいって言ったら、ちゃんと伝えてあげるからっ……アナタが、あさみがどんな顔で、さよ……さよならって言ってたかっ!」 解き放たれた感情はあまりにも衝動的で、青桐みすずは過呼吸を引き起こす。 (青桐みすず)「はぁ……は、は、は……うぅ……」 (紫苑あさみ)「あさみちゃん……だい、じょうぶ……?」 毒のせいか、紫苑あさみはベッドの上から心配そうな視線を送りはするが身を起こす事はなかった。 (青桐みすず)「え、えぇ。だいじょう、ぶよ……このくらい、アナタに比べたら……ワタシなんて……」 (紫苑あさみ)「みすずちゃん……うん、私、応援してるから。みすずちゃんと、……赤花さん、上手くいくと、いいね……けして私みたいに、ならないで……なったら、ダメなんだよ……」 (青桐みすず)「あさみっ……う、うぅうう……」 青桐みすずは、呻き嘆いた。涙があふれ、ついにはむせび泣いた。 これから始まる最終幕を、決して涙で滲ませぬように、彼女は泣き尽くすのだった。 (紫苑あさみ)「裸だなんて、やっぱり恥ずかしい、ね……」 最期の儀式のため、紫苑あさみは一糸纏わぬ姿で横たわっていた。 (青桐みすず)「でも、……キレイだよ、あさみ。その、……傷も」 (紫苑あさみ)「ありがと、ふふっ。これは橙花様が唯一、私のために付けてくれたものだから。普段は、誰にも見せられないけどね」 確かにそこは、友人という関係のままでは気づくことが出来ない箇所。結ばれ誓い愛し合った二人にしか、分からぬ秘密の場所だった。 (紫苑あさみ)「じゃあ、……始めるね」 そして、――最期の儀式が、幕を上げる。 (青桐みすず)「……うん」 涙をすっかり枯らした青桐みすずは、腫れた眼を伏せることなく前に向け、呼吸を整えた。 (青桐みすず)「あさみ、」 (紫苑あさみ)「なに?」 (青桐みすず)「……忘れないから。アナタのこと」 (紫苑あさみ)「ありがとう。でも、……忘れて。じゃないと、みすずちゃんの幸せを台無しにしちゃう。そんなの、……嫌だよ?」 (青桐みすず)「そう。でも、……忘れない。思い出さないようにはするから、安心して」 (紫苑あさみ)「ふふっ、ありがと。じゃ、……いくよ」 紫苑あさみはそう宣言すると、右手に抱えたナイフを自らの下腹部に押し当てた。そして刃をゆっくりと、 (紫苑あさみ)「くっ、……ふぅ、ん……」 内部へと、侵入させてゆく。 (紫苑あさみ)「ん、く、うぅ……」 毒のおかげで、痛みはない。しかしこのナイフで死ぬつもりはない。傷つける場所を誤らないようにゆっくりと、ゆっくりと沈み込ませる。 (紫苑あさみ)「この……くらい、かな……じゃ、じゃあ……」 数センチほど刃を体内に入れる事に成功すると、今度は一文字に切り裂き始めた。途端に栓を失った疵口から、とめどなく鮮血があふれる。鼡径部を伝い、大腿部の内側を染めながら、陰部と大腿部に囲まれた場所に位置する白いシーツをたちまち緋く侵蝕してゆく。 ――何だか、漏らしてるみたいで恥ずかしい。 そんな感情さえも、いつしか快楽に変わってしまった。 (紫苑あさみ)「ふぅ……うぅ……ん……えい、えい……」 刃が皮に、肉に触れる、一瞬一瞬の刺激を身を仰け反らすほどに感じてしまう。 (紫苑あさみ)「っ! ……っ! え、えい、……んっ!!!」 それでもその感覚に溺れることなく、懸命に小刻みに刃を抽送させ、少しずつ皮を、肉を切断してゆく。そのたびに赫黒い体液が刃を伝い、繊手を穢し、そして飛散した。 (青桐みすず)「あさみ……」 触れることが点であるならば、切断は線。皮膚を切り裂くたびに襲い来る快感は想像以上で、紫苑あさみは思わず、両手で疵口を曳き千切る衝動に襲われる。 (紫苑あさみ)「う……うぅ……ん……ダ、ダメっ……」 しかしそれでは、叶わない。彼女の、紫苑あさみの願いが。 (紫苑あさみ)「血を、出来るだけ出さなくちゃ……こんな汚い血、なんて、いらないんだから……」 ――穢れてしまった自分に流れる血なんて、嫌い。いらない。なら、全部捨ててしまおう。 そう、彼女の瀉血行為が意味するのは、贖罪と禊。 意識のあるうちに、まだこの手が動くうちに。 彼女はその身を切り裂く。 (紫苑あさみ)「はぁ、……はぁ、はぁ」 そして、もうこれ以上は動かせないというところまで刃を進めた彼女は、ナイフを曳き抜いた。 (紫苑あさみ)「ん……」 粘り絡みつく体組織。力を籠め、逆らい、乱暴に排出させる感触もまた、快楽に。 (紫苑あさみ)「ふわっ、……あ」 そうしてようやく曳き抜いたナイフを、今度は胸元へ。 (紫苑あさみ)「ん……」 胸部は、肋骨に阻まれ奥まで刃を入れることが困難なので皮膚の表面を切り裂くまでに留めるつもりだった。下腹部に比べ出血量も微々たるものであり、ここを疵つけることに意義は見い出しにくい。しかし、 (紫苑あさみ)「ひっ……」 それでも、彼女は止めることが出来ない。皮膚を貫き肋骨の表面を刃が擦る感覚は黒板に爪を立て不協和音を奏でる行為に似て、少なくとも今はそれが心地良かったのだ。 (紫苑あさみ)「あ……あ……あ……」 最初は横に、そして縦に、すぐに縦横無尽へと。胸部表面を壊してゆく紫苑あさみの動きが、 (紫苑あさみ)「……あ」 不意に、止まった。 (青桐みすず)「……あさみ?」 異変に気づいた青桐みすずは、もはやベッドからも垂れ堕ちた血を踏まないようにして彼女に近づく。 (紫苑あさみ)「……」 俯いたままの紫苑あさみの貌を、青桐みすずが覗き込んだ。彼女は濁った眼を限界まで見開き、だらしなく開かれた口から唾液を滴らせながら硬直していたが、まだ呼吸はしているようだった。 (青桐みすず)「あさみっ……!」 その叫声で意識を取り戻した紫苑あさみは、貌を上げると震えるくちびるで懸命に笑ってまだ自分は生存していることを示す。 (紫苑あさみ)「み、す、ず、ちゃん……ごめんね、もうすぐ、でも、まだ……」 しかしもはや朦朧としているのは明らかだった。おそらくは次が、最後だろう。 (紫苑あさみ)「さ、が、ってて、みすず、ちゃん……血、かかっちゃう、から……向こうに……」 (青桐みすず)「う、うん……」 言われるがままの場所まで移ると、青桐みすずは固唾を呑んで見守る。 (青桐みすず)「……っ」 ――息が、荒い。 それは、非現実を突きつけられた衝撃だけでは決してないことを、彼女は理解していた。 (青桐みすず)「あさみ……」 この感覚を一言でいえば、あぁ、そうだ、彼女は興奮しているのだ。 自らに断罪の刃を突き立て、血の贖罪を果たし、身を濯ぐ。そんな紫苑あさみの姿に青桐みすずは、尊さそして美しさを感じられずにはいられないのだ。 (紫苑あさみ)「みすず、ちゃん、じゃあ、ね……今まで、ありが、とう……」 そんな青桐みすずの高揚を知ってか知らずか、紫苑あさみはそう囁くと、首すじに刃を当て、そして―― (紫苑あさみ)「……みすずちゃんは、こうならないでね」 遠慮なしに、曳き下ろした。 一瞬の空白の後、今までにない勢いで飛沫があがり、全ては血で染まる。それは床に横たわる翠菊透華をも塗り潰し、何もかもを赫で侵蝕した。そして全てを失った紫苑あさみは、蒼白の身体で仰向けに倒れる。柔らかなベッドが彼女を受け入れ、優しく包み込んだ。あとには静寂が残されただけだった。 (青桐みすず)「終わったんだね……頑張ったね、あさみ……」 部屋を充たす鮮血が緋色となった頃、青桐みすずはこの部屋に来る前に用意しておいたカサブランカを撒き散らし始めた。断罪の結果、贖罪の証である血は穢れている。敢えて人の眼に晒していいものではない。ならば、無垢な白で消してしまおう。二人はそう、決めていたのだ。 (青桐みすず)「あさみ……」 最後に、青桐みすずはベッドへと近づいた。紫苑あさみの疵口を、百合の純白で縫うために。そうして覗き込んだ彼女の貌は、涙に濡れていた。 (青桐みすず)「……」 当然だろう。この物語は、悲劇。相容れぬものが、出会ってしまった結果なのだから。 あぁそうだ、そうなのだ、これは結果。悲劇の終幕。ならば、幕が開いたのはいつだったろう。 (紫苑あさみ)「みすずちゃん、お話があるの……」 橙花まゆの告白を受け入れた紫苑あさみは、彼女は一緒に過ごせない放課後、青桐みすずに相談を持ち掛けていた。 (青桐みすず)「なに、珍しいわね? どうしたの?」 何故、相談相手に青桐みすずを選んだのか。それは、もちろん彼女が気の許せる幼馴染だったから、ということもある。しかしそれ以上に彼女でなければならない理由、それは―― (紫苑あさみ)「あ、あのね、私……女の人から告白されたの……」 (青桐みすず)「っ!? そ、そう、なんだ……」 (紫苑あさみ)「それでね、みすずちゃんなら、こういう事、相談出来るかな、って……」 橙花まゆと交際するまで同性はもちろん異性との恋愛感情も薄かった紫苑あさみに対して、青桐みすずはずっと、少なくとも本人が覚えている最初の記憶の頃から、同性を恋愛の対象として見てきた。そして、その事を知っているのは紫苑あさみのみ。何故ならば、彼女が持つあらゆる概念は希薄であり、故に親友が、幼馴染がどんな恋愛・性的嗜好を持とうと真っ当に話を聞いてくれる、青桐みすずにとっては唯一の存在だったからだ。 (青桐みすず)「そりゃあもちろん、相談には乗れるケド……ワタシだって、上手くいったことなんてないんだよ……?」 (紫苑あさみ)「でも、それでも私にとっては、みすずちゃんしか居ないの……」 途端に眼を潤ませる紫苑あさみを見て、慌てふためく青桐みすずは周囲を警戒しながらも了承するのだった。 (青桐みすず)「……話を聞く限り、気になるのは向こうの家柄くらいで他は大丈夫そうではあるケド……そもそも、もう付き合いますって言っちゃったんでしょう?」 (紫苑あさみ)「う、うん……」 (青桐みすず)「なら、あとはもうドーンと構えるしかないよ。あさみだってワタシの昔話は覚えてるでしょう? その上で女の子と、アナタと付き合いますって言った自分を信じてみてもいいんじゃない?」 (紫苑あさみ)「そ、そうかな……ううん、そうだよね。うん、ありがとう! 私、橙花様とのお付き合い、頑張ってみるよっ……!」 (青桐みすず)「うんうん、その意気その意気っ! がーんばれっ!」 ――あの時、なぜワタシはあんなことを言ったんだろう。 分かってる、決まり切ってる。仲間だ、ワタシは孤独に耐え切れなくて同じ悩みを持つ仲間が欲しかったんだ。 ねぇ、あさみ。ワタシだって、ずっと思ってたのよ? 人間は、自分が持っていないものを持っている他人とは絶対に分かり合えないって。だから、……正直に言うね、この時まで、あさみだって信用はしてなかった。だって、あさみは持ってなかったんだから。ワタシの話を聞くことが出来るというだけで、アナタは同性を好きになったことなんてなかったんだから。 そんなアナタが、ワタシと同じものを持つかもしれないというところまで来ていると知って、どんなに嬉しかったか! アナタは知らないでしょうケド、ワタシにとって初めての仲間が出来るかもしれないって、あの話の最中、ワタシはずっと興奮していたのよ。 だから、……ワタシは積極的に後押ししてしまったの。絶対に、あさみにはワタシと同じ側にいて欲しかったから。ワタシと同じ悩みを共有出来る本当の友達になってほしかったから。 (青桐みすず)「でもソレが、……アナタを殺してしまったの?」 ――もしもワタシが、あのとき自分の経験に基づいて反対していれば。苦しい事ばかりで、きっとアナタを壊してしまうと強く説得していれば。 (青桐みすず)「ワタシが、アナタをっ……」 どうして。どうして。どうして? どうして、どうしてどうしてっ!!! 何で誰も、分かってくれないの!? こんな結末を迎えてまで、どうしてワタシたちは生きなければならないの? いつまでも多数派に奇異の目で見られて、生かされる立場に甘んじて、おかしいのは自分たちだって思い知らされながら、たまに認められる権利に縋って、笑って生きてろって? 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ! 大嫌い、大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い、みんなダイキライっ! ならもう、ワタシはあの世界へは帰らない、大層な一族の娘とやらが用意したこの楽園で、生き残ってやるんだっ……! (青桐みすず)「あは、あはは……」 ――あははははっ! この楽園には誰が必要かな、何が必要なのかな? まず男なんていらないわ、……あぁ、そういえばとっくに死んでたわね。