――あたたかい。 羊水に沈む胎児のように、ボクは充たされている。 あまりの心地良さに、あぁ、段々と眠くなってきた。 首筋には、彼女の綺麗な手。 水面境界の向こう側に佇む彼女の貌が、次々と浮かんでは消える波紋で霞んでよく見えない。 ねぇ、……まゆ様は今、どんな貌をしているの? でもきっと、相変わらずの凛とした美しさなんだろうな。羨ましい。 そうしているうちに、なんだか気が遠くなって―― ――アレ? 確かボクは、シャワーに入っていたハズじゃ―― 「……きろ、起きるんだ! 早くっ!」 (赤花美琴)「え……」 (藍 早苗)「ここはもう危ないっ! とにかく外へっ!」 突然の事に、頭が追いつかない。 ――あぁ、結局私、そのまま寝ちゃってたのか…… その安穏とした独り言は、しかし嗅覚を刺激する乾いた臭いに掻き消された。 (赤花美琴)「何っ!?」 蒸せかえるような微粉末特有の乾きが鼻腔をくすぐる。まさかこれは―― (藍 早苗)「クソっ、誰がこんな事を! 赤花さん、早く! 既に多くの部屋から火が出ている! 僕達に消す事は無理だ、早く外へっ!」 (青桐みすず)「美琴、行こうっ!」 (赤花美琴)「う、うん!」 三人が応接間を出ると階上階下、様々な個所から出火している事が瞬時に理解出来た。運悪く昨日あれだけ荒れ狂っていた空は晴れ渡り火の勢いを抑える事は期待出来ないだろう。 (藍 早苗)「早く出口へっ……!」 (赤花美琴)「待って、……橙花さんとみつみさんは!?」 エントランスホールから階上へと視線を向けた赤花美琴が叫んだ。 (藍 早苗)「分からない、まだ二階は確認していないんだ!」 (青桐みすず)「美琴、早く!」 (赤花美琴)「……」 複数個所からなので確かに鎮火は無理かもしれない、が、火の勢い自体はまだ弱いようにも彼女の眼には映る。 ――それに、……これ以上、誰かが居なくなるところなんて見たくないっ! (青桐みすず)「美琴っ!!!」 (赤花美琴)「ゴメン、みすずは先に行ってて! 私、橙花さんの様子を見てくる!」 (藍 早苗)「やめるんだ、向こうだってもう逃げているかもしれないんだぞ! 危ない!」 (赤花美琴)「……ゴメンっ!!!」 冷静ではいられないこの状況下でも、恐らく自分の行動は間違っているのだろうと理解出来る。それでも彼女は止まらない。駆け出す。踏み込む。乗り越える。きっと少しでも躊躇ってしまったら、挫けてしまうから。 (青桐みすず)「やめてっー!!!」 (藍 早苗)「くっ……」 瞬く間に階上、橙花まゆ達の居る部屋へと赤花美琴は辿り着いた。ここに至るまで、特に危険は感じられない。火の勢いはまだ弱く、煙もそこまで酷くは無かった。 (赤花美琴)「よしっ……」 その、自分は正しい事をしている、だからここまで無事に来れたのだという安直な感情のままに彼女はドアを開けた。 (赤花美琴)「橙花さん! みつみさん! 何処!? 大丈夫!?」 そして足を踏み入れたその先は、まさに煉獄。 紫苑あさみが眠っていた場所からは、劫火。全てを焼き尽くすその炎は既にベッドを呑み込み、しかしそこに彼女の姿は無かった。 (赤花美琴)「橙花……さん……?」 もちろん遺体が独りでに彷徨う事などありえない。だとすれば橙花まゆが関わっているはずなのだ。しかし部屋の何処にも彼女の姿は無く、そして浴室には―― (赤花美琴)「きゃあぁあああっ!!!」 その光景は、絶望。 失う亡骸、消える少女、そして。 (赤花美琴)「あっ……」 その悍ましさに足から力が、抜けてゆく。 そしてゆらぐ彼女の背後に、人影。 (赤花美琴)「っ……」 薄れる意識を充たすものは、暗澹。しかしもはや何の抵抗もする事は出来ず、ただ呑まれてゆくだけ―― (藍 早苗)「……大丈夫かっ!」 しかし彼女を掴んだのは、共に生きようとする意志。 (赤花美琴)「早苗さん……!」 (藍 早苗)「まったく、追いかけてみれば案の定。この部屋は火の勢いが酷い、さぁ早く……っ!?」 そして藍 早苗は、見てしまった。 浴室、浴槽、ゆれる水面、溺死する少女。 紫苑あさみがそうであったように安らかな表情で微笑み、そして日常を求め藻掻き足掻く彼女らを安息の世界へと招き入れるかのように両手を広げ水面という生と死の境界線を越えて指先をこちらへと向ける黄蓮みつみの遺体を。 (藍 早苗)「おう、れん……さん……」 (赤花美琴)「何で、どうして……」 (藍 早苗)「クソっ、いったい誰が、何故……」 そして二人は数十秒、唯々茫然としていた。そうするしかなかった。時の流れは忘却の彼方、二人は呆けていた。何も考えられなかった。 (藍 早苗)「……」 自然と、彼女の屈託の無い笑顔が脳裏に浮かんでは消えてゆく。 普段はあれ程喧しかった彼女が、ただ微笑んで優しく手招きしているだけだなんて信じられなかった。 (藍 早苗)「くっ……」 だが刻は、未来永劫に進み続ける。 それは失意に沈む少女達も、例外では無い。 気づけば焔は、部屋の大半を灰に帰した。この浴室も、時間の問題だろう。 (藍 早苗)「行こう、赤花さん。もうここには、……居られないんだ」 (赤花美琴)「そん、な……みつみさん、は……?」 その縋るような上目遣いに、涙を湛え怯える眸に、しかし藍 早苗は応えられない。 (藍 早苗)「……置いて行くしかない。彼女の背負って外まで逃げるなんて、……無理なんだよ」 (赤花美琴)「うわ、あ、あぁあ……」 視界が知っていた。脳が理解していた。それでも声は拒絶した。 (藍 早苗)「泣くんじゃないっ! ……行くんだっ! 僕達は、彼女は、分かっていたはずだ! この孤島に僕達の日常なんて無い事を! そんな世界でっ……バラバラの遺体と……それを見て微笑んでいるクラスメイトと……一夜を共にすると決めたその瞬間からっ……彼女だって分かって……いた……」 (赤花美琴)「早苗さん……」 彼女は、藍 早苗は、強い言葉を吐きながら弱弱しくも泣いていた。 だから少女は、赤花美琴は行く事を、――生きる事を選択したのだろう。 (赤花美琴)「……分かったよ、ゴメン、何から何まで私がワガママだったね……もう、 大丈夫だから。私は、行けるからっ!」 (藍 早苗)「あぁ、……ありがとう」 彼女は赤花美琴を抱き締めながら天を仰ぎ、涙は首筋を伝う。その涙が鎖骨のくぼみから零れた頃、二人は意を決し浴室を出るのだった。 (藍 早苗)「行くぞっ!!!」 出来るだけ衣服を濡らし、少女達は駆ける。 ドアを抜け、廊下を渡り、階段を下る。幸いな事にまだ通路までは火も及ばず、比較的すんなりとエントランスホールまで辿り着きそしてそのまま外へと走り抜けた。 (赤花美琴)「はっ……はっ……はっ……」 肩で息をする赤花美琴に、それまでの疲労が圧し掛かる。たまらず庭園に座り込む彼女の下へ、青桐みすずが駆けつけた。 (青桐みすず)「大丈夫っ!?」 (赤花美琴)「う、うん……ちょっと、疲れただけだから……」 (青桐みすず)「ホントに? 本当に、大丈夫な、の……? 美琴……美琴ぉ……う、うぅううう……」 (藍 早苗)「怪我は無いはずだ。少し休ませて……」 (青桐みすず)「っ! あンたには、……聞いてないっ!!!」 その刹那、まるで感情の豹変に呼応するような形で洋館の窓硝子が爆風と共に内側から弾け飛んだ。可視放射で煌めく破片が、造作も無く地面へと突き刺さる。 (赤花美琴)「きゃあぁああ!」 ソレは庭園にも等しく降り注ぎ草花を切断して赤花美琴の近くにも舞い堕ちた。しかし運よく彼女の手前で乱舞のステージは途切れ無傷のままで済んだのだった。 (赤花美琴)「た、助かった……?」 反射的に眼を閉じ耳を塞いでいた赤花美琴はその事実を数秒後にようやく実感する。 (赤花美琴)「ねぇみすず、みすずは大丈夫だった……?」 そう声を掛けながら顔を上げるが、返答は無い。 (赤花美琴)「……?」 視線の先に居た青桐みすずに何処にも怪我は無いように見えたが、その貌は蒼白。 (青桐みすず)「あ……あ……あ……」 (赤花美琴)「みすず? ど、どうした、の……?」 彼女は立ち尽くし震えながらも、眼を見張り洋館の方角をただじっと凝視していた。館に背を向けていた赤花美琴は熱風の中で悪寒に脊椎を逆撫でられながら青桐みすずの視線のその先へと顔を向ける、そこには―― (藍 早苗)「……」 藍 早苗が、呆けていた。 自身の足元を見たまま、口をだらしなく開け、虚ろな表情で唯々唖然としていた。 その視線の先には、――彼女の左腕。 ヒクヒクと指先を痙攣させながら、切断面から鮮血を吐き出しながら、まるで誰かと手を取り合いたいかのように蠢く左腕。 対照的に彼女は、ピクリとも動かない。切断面から垂れる体液も勢いは無くただ重力に曳かれているだけだった。 (赤花美琴)「い、や……なん、で……どうし、て……」 その理由は、残酷なまでに明白。 彼女の胸部から突き出た、硝子の――破片というには憚られる程に巨大な、欠片。その、緋く、白く、粘つく体液と臓器を纏った透明な凶器が一瞬でその命を摘み取ったのだ。 あぁ、……何と言う事だろう。 おそらくこの孤島で、彼女は最も聡明だった。 やるべき事、為すべき事を率先して指示、行動に移し生き残る事に懸命だった。結果赤花美琴や青桐みすずはここまで生き残ったのだと断言しても差し支えない程だというのに、当の本人は夢見る孤島によって何の前触れも無くあっさりと絶命させられてしまったのだ。 そして再び、少女達を襲う爆風。せせら嗤うかのように咆哮する焔。 (青桐みすず)「きゃああああ!!!」 藍 早苗の亡骸は熱風に煽られクルクルと廻転しながら地に伏せる。 (赤花美琴)「やめてー! いやぁあああ……」 しかし狂虐なる悪夢は追撃の手を緩めなかった。 舞い踊る彼女に対し一つまた一つとその身体に硝子を突き刺してゆく。 左鎖骨下窩。右後上腕部。左前膝部。右外果後部。後頚部。 そして最後に、――眼窩の大きさを超える程の破片が右眼球を顔面ごと斜めに切断し、ようやく彼女は果てる事を許された。操り人形のように奇妙な動きを演じ最期には残された少女達に向けて双腕を伸ばした状態で地に伏せその様子はまるで助けを求めているようにも黄泉へと誘っているようにも見える。 (赤花美琴)「いや、あ、あ、あ、あ」 ほんの数分前まで、彼女は確かに無事だった。赤花美琴を叱咤激励し共に明日を見ようと声を張り上げていた。 それがほんのわずか生と死の境界線を隔てたが故に、悲惨な最期を迎えてしまった。 ――次はきっと、自分の番。 (赤花美琴)「うわ、ぁ、あ、あ、あぁああっ!!!」 ――どうせきっと、みんなみんな死んでしまうんだ。 (赤花美琴)「も、もう嫌だよ、助け、助けて、うわ、あああ……」 そして、気がつくと彼女は駆けだしていた。 (青桐みすず)「美琴、何処へ行くの!? 待って……!」 その行く先は、自身にも分からない。 ただ、もうこんな場所には、こんな世界には居たくなかった。限界まで、自分の足で行けるところまで、とにかくもう立ち止まってはいられなかったのだ。 (赤花美琴)「もう嫌だ、もう嫌だ、……もう嫌だ! 嫌、嫌、いやなのよっ……!」 何処か、果てしなく遠くへ。 息の続く限り足の動く限り、流す涙が乾くまで催す吐き気が失せるまで、とにかく走った。右腕と左腕を、右足と左足を、無我夢中で振り切った。 このまま、誰も居ない世界へ行きたい。 誰も居ない世界で、寂しさとだけ友達になりたい。 ただそれだけで、いいの。 (赤花美琴)「はぁ……はぁ……はぁ……」 そして終焉の果て、辿り着いた場所は港の船発着場だった。 何の気なしにノブへと手を伸ばすと、風に煽られたのか軽く触れただけで勝手にドアが開いてしまう。 (赤花美琴)「何よ、もう……何なのよ……」 極度の緊張状態と極端な全身運動。 疲労困憊の彼女に論理的な思考回路はその動きを止め、赤花美琴は導かれるかのようにフラフラと建物内へと入ってゆくのだった。