(藍 早苗)「僕達はそろそろ戻るけど、君は……どうする?」 青桐みすずがすっかり落ち着きを取り戻した頃、藍 早苗はそう提案した。 (橙花まゆ)「私は……ここを離れるつもりはありませんわ。どのみち、犯人もマスターキーは持っているのでしょう? チェーンロックだって簡易的なものですし、ならば何処に居ても同じ事。私はここに残ります」 (藍 早苗)「……そうか」 (赤花美琴)「橙花さん……」 提案した当の藍 早苗ですらそう返答される事は分かっていた。分かってはいたが聞かなければこの澱んだ生ぬるい時間を進める事が出来ないと感じていたのだ。 (藍 早苗)「それじゃ皆、もう戻ろう」 正直なところ、少女達の危機感はピークを過ぎていた。 もちろん今なお危機的状況に晒されているという事実は全員が理解しているのだが、しかしその感覚を極度に持続出来る限界はとうの昔に過ぎていた。橙花まゆの言う通りこの孤島に居る限りは何処に居ても殺意は等しく降りかかり逃れる事は出来ない。ならば何処でどう時間を過ごそうと関係の無い事なのではないか? そんな問いが少女達の足首に絡みついている。 しかしその感覚は、――累卵。 死後間もない遺体と共に過ごす事に何の疑問も感じない、そんな感情の一部分だけを麻痺させたままで孤島の悪夢にその身を晒し続ければそう遠くないうちに自らの生死すら希薄になってしまうだろう。 【どうせ、ここから生きては帰レナイ】 (藍 早苗)「っ……!」 誰かがふと、……そう囁いた気がした。 ――ダメだ、この感覚を増長させるわけにはいかない! どうにかしなければ……何でもいい、日常の世界に少しでも近づかないとっ……! (藍 早苗)「……行こう、赤花さん」 藍 早苗はそう言うと強引に彼女の手を引いた。赤花美琴が動けば青桐みすずも来るはず、そんな期待の上での行動だった。 ――あの遺体から、甘く苦い幻惑から離れなければ。 彼女はその直感を、信じた。縋った。 (赤花美琴)「わ、うんうん、戻るよ、戻るからちょっと落ち着いて……」 (青桐みすず)「美琴っ……!」 引き摺られるように二人はドアへと向かう。 (赤花美琴)「みつみさんも……」 (藍 早苗)「……」 藍 早苗は、振り向かない。 何故なら―― (黄蓮みつみ)「……ボクは、まゆ様と二人でここに残るよ」 (橙花まゆ)「……」 (藍 早苗)「……そうか。いや、止めはしないさ」 そして、彼女は最後まで黄蓮みつみの方を見なかった。 彼女は、きっとここに残るだろう。 そうも予想していたからこそ、藍 早苗は早々に赤花美琴の手を曳いたのだ。 (橙花まゆ)「黄蓮さん。私は二人きりで大丈夫ですわ」 (黄蓮みつみ)「……うん、分かってるよ。でも、ボクも決めちゃったか~らねっ! にゃはは!」 そう宣言すると黄蓮みつみはベッドに腰掛ける彼女の下腿部へと寄り添うように足を広げたまま腰を下ろした。 (黄蓮みつみ)「ん~、まゆ様ってば足ほそ~いっ! 羨ましいなぁ……」 (橙花まゆ)「……」 橙花まゆの視線は、ベッドの上から離れない。 (藍 早苗)「僕達は、応接間に居る。気が向いたら来てくれ」 (黄蓮みつみ)「……うん」 最後に、彼女はぽつりとそう呟いた。 (黄蓮みつみ)「皆、行っちゃったね~、寂しいもんだ! な~んて、……ね」 (橙花まゆ)「……」 (黄蓮みつみ)「あ……」 すぐに部屋は静まり返り、まるでこの洋館には誰も居ないよう。たった数秒で、いましがた別れたばかりの三人の安否でさえもまったく分からなくなってしまった。 ベッドには、紫苑あさみと橙花まゆ。彼女は時折紫苑あさみの方へと手を差し伸べているようだがしゃがみこんでいる黄蓮みつみには何をしているのかハッキリしなかった。 ――ねぇ、まゆ様。 そっと見上げながら、彼女の名前を呼ぶ。 学校での貴女は、まるで女王様のよう。 自由気ままで優雅に振る舞い、目の敵にされても臆する事無く自らを貫く孤高の君。 そんな貴女が、まさかこんなにも壊れてしまうなんて。 それ程までに、彼女を愛していただなんて。 ――羨ましい、な。 分かってる。 ボクは、何でもない。何にも、ないんだ。 ただそこに居て、ただ笑ってる。 誰を好きになった事も、何に夢中になった事も、憎んだ事すらも無い。 唯々、脅えていただけ。自分に、何も無い自分に。 元々学校でまゆ様やあさみちゃん、早苗ちゃんに近づいたのだって、それは彼女達が孤立してたから。 きっと寂しいハズ、だったらボクが近づいても、たとえボクには何も無い事に気づいたとしても受け入れてくれるハズ、そうさ、そうだよ、学生なのにボッチなんて嫌でしょ? だったらしょうがないなぁ、ボクがそばに居てあげるよ、いつもみたいにテキトーっぽくにゃははと笑って、それっぽい事言って、ちょっとおバカなキャラでさ! そーすれば、うんうん、向こうだって一人で居るより人数は多い方がいいでしょ? チョロいチョロい、何か共通点でも見つけて軽く褒めてあげればたぶん心だって開いてくれるよね! そーすれば―― (藍 早苗)「……悪いけど、少し静かにしてくれないか?」 ――あれ? (橙花まゆ)「貴女のようなお方、今まで大勢見てまいりましたわ。……可哀想な人」 ――な、なんで? どうしてなのさ!? どうしてボクから遠ざかろうとするのさ!? おかしい、おかしいよ、ボッチのくせに、周りから奇異な眼で見られてるくせに、ボクと仲良くしないでどうするの? ボクならそばに居てあげるよ、たとえどんなにキミが変な人でもボクは優しく笑っててあげるから、そ、そうだ、そうだよ、キミみたいな娘と一緒に居ればボクの自尊心も満たされるしそっちは寂しくないしいいことづくめ! だから群れようよ、変な人同士でさ、お互いに弱いところを握り合って、そうすればボク達はきっと親しいトモダチになれる、ボクみたいに何にも無い人間でもキミのそばになら居場所が―― (藍 早苗)「要らないよ」 ――っ!? (橙花まゆ)「貴女なんて、要らないわ」 ――あ、 (紫苑あさみ)「……浅ましい方ですね」 ――あぁあアあ あぁあ、やめて、そんな眼で見ないで、そう、そうだよ、ボクは、ボクには何にも無いよ、分かってる、分かってるさ、ボクはたとえばコバンザメみたいなもの、常に誰かのお零れを狙って生きてるんだよ、だってボクは特別な事なんて何も出来ないんだもん、ボクに出来る事は皆にも出来るし何の価値も無いよ、ただ朝起きて学校に行って授業を受けて休み時間は適当に過ごしてお弁当を食べて夕方には帰宅してテレビ見てまたご飯を食べてお風呂に入って寝るだけ! 毎日がそれの繰り返し! 何なの!? こんな事に何の意味があるの!? 他人をあっと言わせる事は何も無い、ボクは何にもなれない、誰かの【特別】になんてなれないんだよ!? このまま大人になってどうするの? ボクが居なくなったって何も変わらないよ、一昨日も昨日も今日も明日も明後日も! 毎日毎日毎日毎日ほんの少しだけ違う一日がやって来るだけ! そんなの嫌だよ、怖い、怖いんだよ、このまま歳を取っていく事が! あのまま死んでしまう事が! 今死んでも十年後に死んでも二十年後に死んでも同じなんて―― (橙花まゆ)「……今日はもう疲れたでしょう」 気がつけば瞼は痙攣し呼吸は荒く動悸が酷い。その声でふと我に返り見上げると無表情の中に幽か微笑む橙花まゆが彼女の視界に映った。 (黄蓮みつみ)「まゆ……様……?」 (橙花まゆ)「先程はごめんなさいね、私も気が立ったみたいで……貴女にどんな言葉で返せばいいのか分からなくなってしまっていて……おかげで少し、良くなった気がします」 (黄蓮みつみ)「いや、……いやいや~、ボクの方こそゴメンね、何だか無理矢理押しかけちゃって……でも、マユ様が少しでも元気になったのなら来たかいがあったよ! にゃはは!」 (橙花まゆ)「えぇ、ありがとう黄蓮さん。貴女のおかげで私も少し吹っ切れましたわ。もし貴女がここで明日を待つというのなら私も追い出したりしません。ですから先にシャワーにでも入って少しでも身体の疲れをお取りなさい」 (黄蓮みつみ)「え、ボクが先でいいの!? まゆ様の方がお疲れなんじゃ……」 (橙花まゆ)「私はもう少しだけここに居ます。少し、……準備もありますし」 言われてみれば、鉈とノコギリを抱き血と人油に塗れた彼女は直接浴室に向かう事すら難しいように見える。黄蓮みつみは素直に応じ立ち上がると彼女に満面の笑みを向け浴室へと向かった。 (橙花まゆ)「……いってらっしゃい」 (黄蓮みつみ)「ふう……」 ――設定温度は同じなのに、昼間に入った時より心なしかあったかい。きっとあの微笑みが、ボクの欲しかったものなんだ。 特に身体を洗うでもなく、彼女はそう思いながらしばらくの間シャワーを浴び続けていた。浴びながら腹部が張る程に深く息を吐き、数秒呼吸を止めてあたたかい湯気と共に吸い込む。 身体の内外、精神的にも心地良く満たされてゆく感覚。やっと自分の居場所を見つけた、そこに居る事を認めてもらえた――そんな喜びと共に頭が冴えてゆくのがはっきりと分かる。 すると背後から扉の開く音が聞こえ彼女の背中を少しだけ冷たい風が撫でた。 (黄蓮みつみ)「まゆ様っ!?」 鏡越しに映るその姿は、白と赫のコントラストが美しい人形のような肢体。跳ね上がる鼓動で頭痛がする程の衝撃だった。 (橙花まゆ)「やはり一人は、心細いですものね……いいかしら?」 (黄蓮みつみ)「も、モチロンだよ~! にゃはは、なんだか緊張するなぁ~!」 すると背中に、嫋やかな質感。 そして水気跳ね飛ぶ浴室内においてもハッキリと知覚出来る、首筋を舐められるかのような彼女の吐息。 (黄蓮みつみ)「あ、あのっ……」 反射的に振り返った黄蓮みつみの眼前には、一糸纏わぬ橙花まゆ。 片腕で胸元を隠しもう片腕は後ろに廻し、その仕草はまるで優雅に挨拶を交わす貴族のよう。 (橙花まゆ)「黄蓮さん……」 そして彼女は一歩また一歩と小さな歩幅で近づいて―― (藍 早苗)「……」 (赤花美琴)「どうしたんですか、早苗さん?」 同時刻、応接間。 それまでより一段と深いため息をついた藍 早苗に対し赤花美琴はそう質問していた。 (藍 早苗)「いや、ちょっと頭痛がして……たぶん、あの部屋の匂いにやられたんだ」 (赤花美琴)「あぁ分かります、あの匂いは確かにちょっと……甘い匂いとそうじゃない匂いがごちゃまぜになってて、それでいてどっちもハッキリと分かってしまって、嫌ですよね……」 (青桐みすず)「……」 (藍 早苗)「あの匂いを嗅いでいると、なんだか無性に嫌な事ばかりが頭をよぎるよ……」 (赤花美琴)「それにしても……大丈夫かな、みつみさん」 (藍 早苗)「分からない。ここに来るのが正解なのか、……彼女と一緒にあの部屋に居れば良かったのか。すまない」 (赤花美琴)「いえいえ、早苗さんが謝る事じゃないですよ! 私もあの匂いの中にずっと居るのは正直耐えられないと思ってましたし。ね、みすず?」 (青桐みすず)「え? え、えぇ……」 (藍 早苗)「そう言ってもらえると気分が楽になるよ。ありがとう」 (青桐みすず)「それにしても、……黄蓮さんがあんなにも橙花さんのそばに居たがるなんて、なんかちょっと……不思議」 青桐みすずは吐き捨てるようにそう言葉を漏らした。するとその仕草に関しては特に気に留める様子を見せる事無く藍 早苗が答える。 (藍 早苗)「あぁ、黄蓮さんは人懐っこく見えてクラスでは僕か橙花さんとしか仲良くしていなかったからね」 (赤花美琴)「え、そうなんですか!? てっきり、クラスのムードメーカー的な存在なのかと……」 (藍 早苗)「最初は皆とも仲良くしていたように見えてたんだ。でも一年の三学期になった頃、彼女はどんどんと塞ぎ込むようになって、そして気がついたら僕や橙花さんのそばに居た」 (赤花美琴)「へぇ……意外ですね」 (藍 早苗)「橙花さんはともかく僕なんかは基本的にずっと一人だったからね。僕自身が慣れるまでに少し時間がかかったけど、まぁ普通に仲良くなったつもり、かな」 (青桐みすず)「【つもり】?」 (藍 早苗)「ははは……まぁ、仲良くなってからも時々、彼女は怯えているかのような眼で僕や橙花さんと接している事があってね」 (青桐みすず)「怯える……」 (藍 早苗)「あ、あぁ……もうこの話はやめようか。臆測にしか過ぎない事を今こんな所で話していてもしょうがない」 青桐みすずの視線に違和を感じた藍 早苗は強引に話を打ち切った。 (赤花美琴)「そ、そうですよね……今は、出来るだけ明るい話でも出来たらいい……なぁ」 ――そうだ。あの時彼女は、黄蓮さんは何に怯えていたんだろう。 少なくとも僕は、好意的に接していたつもりだった。彼女はいつも明るく笑っていて、けれども本音は教えてくれなかったから結局何に怯えていたのかは分からないままだ。 あぁ、こんな状況下であえて言葉にしてしまったからだろうか? なんだか今、無性にその理由を聞きたくなってきてしまった。 明日、聞けるだろうか。いや、聞こう。教えてもらって、そして帰ろう。元の世界に。いつもの日常に――