(赤花美琴)「……」 あれから、はたして何時間が経過しただろうか。 (青桐みすず)「……」 日も暮れ視覚的な変化が途絶えて久しい時間帯になると応接間に置かれた大きな振り子時計の時を刻む音だけがこの悪夢のさなかにおいても決して時は止まる事なく一秒また一秒と明日へ向かっている事を少女達に示していた。 (藍 早苗)「……」 だがしかし、たとえ今日という日がいつか終わりを迎えようとも彼女達がこの悪夢から目覚める事は無いだろう。 (黄蓮みつみ)「……」 何故なら夢を見ているのは少女達ではなく、――この孤島。 想い違えた大人を追放し相交わらぬ世界から隔離されたこの孤島が見る悪夢、彼女達はそんな箱庭の住人に過ぎないのだから。 ならば、その悪夢を終わらせる方法は―― (黄蓮みつみ)「……ちょっと、まゆ様の様子を見に行ってくるよ」 (赤花美琴)「えっ!?」 (青桐みすず)「……」 (藍 早苗)「……どうしてだい?」 (黄蓮みつみ)「どうしてって、やっぱり一人だと心配だし」 (藍 早苗)「だけど、それが彼女の選んだ道さ」 あっけらかんと答える黄蓮みつみに対し藍 早苗はそう冷たく言い放った。しかし彼女はその冷酷な言葉でさえも柔らかに笑顔で受け入れる。 (黄蓮みつみ)「でもまゆ様は、別に一人になる事を選んだワケじゃないでしょ?」 (赤花美琴)「あ……」 そう、彼女はただ、最愛の人と一緒に居る事を望んだだけ―― (黄蓮みつみ)「その結果、たまたまあんな事になっちゃったってだけで、さ」 (藍 早苗)「詭弁だね。それに彼女がした事をもう忘れたのかい? この孤島に命の保証だなんていう幻想は何処にも存在しないというのに」 (青桐みすず)「……」 (黄蓮みつみ)「うん、……そうだね~!」 彼女の笑みは天真爛漫というには何処か寂しげで、無知故のものではないように思えた。 (黄蓮みつみ)「だから、……一人で行くよ。皆に迷惑はかけられないからね」 (赤花美琴)「迷惑だなんて、そんな……」 (青桐みすず)「わ、ワタシも、い、行こう、かな……一人は、やっぱり危ないし。さっきは怖かったケド、時間も経ったしきっと落ち着いてるんじゃないかな……」 (赤花美琴)「みすず……」 (黄蓮みつみ)「みすずちゃん……」 (青桐みすず)「ね……? ドウカナ……?」 彼女の笑顔もまた、言葉には出来ない感情を皮膚の下に這わせた歪なものに見える。その直感に息を飲んだ藍 早苗はこう提案した。 (藍 早苗)「……分かったよ。だけどバラバラになるのは危険だ。全員で彼女の部屋の前まで行こう。何か反応があればそれでいいし、何も無くてもそれでいい。その時は皆でまた戻って来よう」 (青桐みすず)「……」 (赤花美琴)「そうだね、そうしようよ! ね、みすず?」 (青桐みすず)「え? ……あ、うん」 (藍 早苗)「……」 (黄蓮みつみ)「よ~し、じゃあそうしよう~! それじゃさっそく、しゅっぱつしんこ~う!」 (黄蓮みつみ)「お、おばけなんてないさ~……おばけなんて、うっそさ……」 いざ応接間を出ると、そこは新世界。 電灯自体は通電こそしているが昼間に移動を済ませてしまった一行はまずスイッチを入れる作業から始めなくてはならず、懐中電灯も無いためまずは応接間から漏れる電灯を頼りに隣接する廊下のスイッチを手探りで探す羽目になってしまったのだった。 (藍 早苗)「確か……昨日はこの辺りに……」 ――パチリ。 小気味いい音が静寂の面廊に響き、瞬きと共に突き当りまでの通路が照らされた。 (赤花美琴)「さすが早苗さん、バッチリですね……」 (黄蓮みつみ)「そ、それじゃ~……行くよ~」 震える声を押し殺す事も出来ず、それでも一行は各々が傘などの武器を持ち警戒しつつもゆっくりと少しずつ二階へと歩を進めてゆくのだった。 (赤花美琴)「……」 カーペットに足音を啜られ無音のままに廊下を渡りエントランスホールへと出る。 (黄蓮みつみ)「うっ、わ~……」 それまでの狭い通路とは違いそこかしこに身を隠す場所があるホール内は欺瞞に満ちており少女達の足を竦ませた。 (藍 早苗)「気をつけて……」 自分達の足音がしないという事は相手も同じという事。その存在すら定かではない仮想犯人の感知不可能な仮定接近に怯えながらも、それでも進まなければ意味が無い。 (赤花美琴)「みすず、大丈夫? ……ひっ!?」 赤花美琴が最後尾を務める青桐みすずの身を案じ振り返ると、今歩んで来たばかりの廊下、その突き当りで人影がゆらめいたように見えた。 (青桐みすず)「……どうしたの?」 俯き気味だった青桐みすずが、顔を上げ彼女の眼を覗き込む。光量が足りないせいだろうか妙に濁って見えたその眼球に息を呑みながらも赤花美琴はもう一度奥に視線を移した。 ――そこには何も、無い。 ソレは古びた電灯の瞬きが見せた悪戯だったのだろうか。 (赤花美琴)「な、……何でもないよ。あ、あはは、ゴメンね?」 (青桐みすず)「うん。……美琴が謝る必要なんて無いよ」 動揺を誤魔化すためか眼前で振り回される彼女の手のひらに巻きついた包帯の奥底に滲む赤褐色の斑模様を凝視しながら、青桐みすずは口元だけで笑みを浮かべるのだった。 ――ぎぃ、ギィ。 一段、また一段と階段を上るたび軋んだ音が何処からか漏れていた。その不安定な音色を耳にしているとまるで奈落に掛けられた吊り橋にその身を任せているかのような気分に陥り、今突然殺人犯が出現したとしても身動きする事が出来ないような気さえしてしまう。 (黄蓮みつみ)「は、早く行かないと……」 緩やかな段差だというのにその先にある踏み板の一つ一つが遠い。体重を掛けたくらいではびくともしないはずの手すりに触れた途端それが折れ砕け落下する妄想がやまず、階下を見下ろせばそこには彼岸花を見る間に咲かせ金魚のように口を動かしただ無言で未来を懇願する絶命寸前の自分が見えた。 (黄蓮みつみ)「は、早く……」 鼓動が、――痛い。 呼吸を阻害する程に脈打つ心臓はふとした瞬間にも止まってしまいそうだった。 (藍 早苗)「……落ち着くんだ。ここには僕ら以外誰も居ない、君の歩みを邪魔するものは何も無い。だから何も心配しなくていい、ただ一段一段階段を上ってゆけばいい」 (黄蓮みつみ)「う、うん、分かった……」 (赤花美琴)「皆、大丈夫? 落ち着いて……落ち着いていけば大丈夫、だよね……?」 (青桐みすず)「……」 やがて、全員が階段を上り切った。 滲み出る汗。絶え間なく咥内を満たす唾液はひたすらに喉を下る。 (藍 早苗)「よし、……もうすぐだ。行こう」 そして、誰もが気づかなかった。 戸惑い幻惑されながらもその精神汚染状態から見れば比較的短時間で無事二階へと辿り着いたその、理由に。 彼女の、最後尾をゆく青桐みすずの一糸乱れぬ規則的な足音が無意識のうちに全員の足を強制的に進ませていた事に―― ――コン、コン。 (黄蓮みつみ)「まゆ様~! 具合はど~う?」 部屋の前にやってきた黄蓮みつみはいつものようにあっけらかんとした態度でドアを叩くが、しかし反応は無い。 (黄蓮みつみ)「まゆ様? ま~ゆ~さ~ま~っ!!!」 ――ドン、ドン。 疲れのせいか、更に力を籠め遠慮なく叩き続ける彼女を止める者は居なかった。 (黄蓮みつみ)「ま~ゆ~さ~……」 (橙花まゆ)「……何かしら?」 ドア越し、それは虚ろな声。 だが確かに、彼女の声だった。 (黄蓮みつみ)「あ、起きてた~? 何って、逢いに来たんだよ~!!!」 (橙花まゆ)「……そう」 ――カチリ。 (赤花美琴)「っ……」 数センチだけ開いたドアから臨む彼女の眼が、廊下の少女達を束縛する。 (藍 早苗)「橙花さん……」 それは、無感情で動物的な混濁の眼球。 (橙花まゆ)「あら、皆様もご一緒なの、ね……」 (黄蓮みつみ)「にゃはは~、ボクが連れて来たんだよ~? まゆ様も人数は多い方がいいでしょ~?」 (橙花まゆ)「私は別に……」 (黄蓮みつみ)「ま~ま~、硬い事は言いっこなしだって~! 部屋の中、……入っても大丈夫?」 部屋の、――中。 当然、ベッドには紫苑あさみの―― (赤花美琴)「ちょっと、みつみさんっ!?」 (橙花まゆ)「……えぇ、構わないわ」 橙花まゆは意外な程素直にそう答えるといったんドアを閉め、すぐにチェーンの外れる音がした。 そして訪れる――沈黙。 (黄蓮みつみ)「……? まゆ様?」 黄蓮みつみがノブに手を掛けるとドアはすんなりと開き、しかし既に橙花まゆの姿は無い。 (橙花まゆ)「こちらですわ、皆様」 ふと、部屋の奥から声がした。 ドア越しではないというのに、それは先程までと同等の虚ろな響きだった。 (黄蓮みつみ)「な~んだ、そっちに居るなら居るって言ってよ~!」 ――パタパタ、……パタ。 (黄蓮みつみ)「まゆ様~、ボクが一番乗りだ、よ……」 部屋の奥、ベッドの前まで一足飛びで我先にと移動する黄蓮みつみの足音が、――ふと、凍りつく。 (黄蓮みつみ)「まゆ……様……?」 (藍 早苗)「黄蓮さん、どうした……」 後を追う藍 早苗は、思わず息を飲んだ。 そこには、クローゼットにあったはずの鉈とノコギリ。 いくら武器になるとはいえ精神衛生上の問題があるとして放置していたその二つを、橙花まゆが抱きかかえていたのだ。 先程は暗くてよく見れなかったが、既に彼女は血塗れ。 テラテラと緋く煌めく刃を指先で撫で、凝固し絲曳く紫苑あさみの体液を愛でているのだった。 (橙花まゆ)「ふふ……」 (赤花美琴)「橙花さん……」 (橙花まゆ)「あら、赤花さん。先程は御免なさいね、取り乱してしまって……」 (赤花美琴)「あ、いえ……もう、大丈夫ですから」 刃物で切りつけられ激痛と出血に苛まれたにもかかわらず、咄嗟の事とはいえさも他人事のように返事をしてしまった自分に赤花美琴は唖然とする。 (赤花美琴)「ちょっとビックリしましたけどね、あは、あはははは……」 ――どうしてだろう? もう大して痛くもないし、結局のところ済んでしまった出来事なのだから、という事なのかな? それとも単に、私は橙花さんに怯えているだけのだろうか? 彼女は自問するが、明確な答えを導き出す事は出来ない。 (青桐みすず)「……っ」 当惑する赤花美琴とは対照的に青桐みすずは明確な感情を以てそっと自らの唇を噛み切った。するとたちまち舌先に鉄錆の味が広がり、同程度の勢いで彼女の陰鬱が精神に滲み始める。 (橙花まゆ)「赤花さん、本当に大丈夫……?」 そんな感情を知る由も無く、橙花まゆは潤んだ言葉を口にし悲痛で顔を歪ませその優しい繊手を赤花美琴に伸ばすのだった。 その刹那、――青桐みすずの心臓は沸き立つ激情に鷲掴みされる。 (青桐みすず)「っ……!」 咄嗟に彼女はその手を払い、そして無意識のうちに二人の間へと割って入っていた。 (赤花美琴)「え……」 (橙花まゆ)「青桐……さん……?」 無意識的。そう、それは無意識だった。つまりそれは本能であり、正しい事。 彼女はそう結論づけ、大きく静かに息を吸った。 (青桐みすず)「いい加減にしてくださいっ! アナタがやった事でしょうっ!?」 途端に帳が下り静寂に満たされていた空気が罅割れてゆく。 (赤花美琴)「みすず……えっと……でも、私ならもう大丈夫だから……」 (青桐みすず)「そういう問題じゃないでしょ! やっぱりワタシが来て良かった、美琴は優し過ぎっ!!!」 (黄蓮みつみ)「お、落ち着いてよみすずちゃん……」 (青桐みすず)「落ち着け!? 何でよっ!? 誰のせいで、どうして美琴があんな目にあったと思ってるのっ!?」 (橙花まゆ)「それについては、……本当に申し訳なく思っていますわ。あの時の私はあさみを受け入れる事が出来なくて、自分を見失ってしまっていて……本当に、ごめんなさい」 そう謝罪し橙花まゆは素直に頭を下げた。その仕草に嘘偽りは感じられず、しかしそのしおらしさが却って彼女の神経を逆撫でる。 (青桐みすず)「そうやって! 謝りさえすれば! どんな酷い事をしても受け入れてもらえるんだって! どうせアナタは分かってて! 分かっててそうやってるんでしょう!? たとえどんなに人を傷つけたって! 痛みは、薄れゆくものだって! 傷はいつか塞がるものだって! いつまでも根に持つ方がおかしいって!」 (黄蓮みつみ)「みすずちゃん……」 (藍 早苗)「……」 (青桐みすず)「許してあげる事が大事なんだって! それが出来るのが良い子なんだって! ふざけるな、ふざけるなふざけるなっ!!! 傷はいつまでも消えやしない、美琴のだってそう! なのにアナタ達はいつだって! いつだってやられた方を悪者にしたがる! 何でよ!? どうしてなのよ!? どうして謝られたからって許してあげなきゃならないのよ!? それで何が元に戻るっていうのよ!」 (赤花美琴)「みすず……」 【美琴のだって】。 もはや彼女が今回の件以外の出来事を引き合いに出している事は暗黙ながら明白だった。その記憶が時の揺蕩うこの悪夢のせいで現在に追いついてしまったのだろう。 (黄蓮みつみ)「みすずちゃん……落ち着いて……」 (青桐みすず)「何、よっ……!」 そしてその激情が矛先を見つけ彼女の腕を振り上げさせたその時、 (赤花美琴)「みすずっ!!!」  それは、――乾いた音だった。  青桐みすずには、何が起きたのか分からなかった。  彼女の、赤花美琴の手を見て、初めて自分の頬が打たれた事を知る。 (青桐みすず)「みこ、と……?」 その視線の先に居る彼女の眼は何だか敵意の塊のような気がして、青桐みすずは思わず竦んだ。 (赤花美琴)「そんな事、しないで」 心臓が痛い。肺が苦しい。頭が締めつけられる。 ダメ、何か、せめて何か言わないとっ……! (青桐みすず)「あ、あの……ワタシ……」 (赤花美琴)「そんな事しなくてももう、……大丈夫だから。この傷も、そして昔の事も」 しかし彼女はもはや、その緩んだ赤花美琴の表情を見ても自分に向けられた感情が敵意ではない事に気づけない。ただ震え、ただ脅え、ただ狼狽えるだけだ。 だけど、――二人は幼馴染。 だから、赤花美琴は知っている。 (赤花美琴)「……ありがとう」 彼女が泣いている時、こうすれば笑ってくれた事を―― (青桐みすず)「っ……!」 だから、後ろから抱き締める。 ゆっくりと、あたたかく。 やさしく、たいおんをつたえるように。 (赤花美琴)「大丈夫。大丈夫、……だよ!」