(橙花まゆ)「五月蠅いっ!!!」 その叫声で身が竦む。 (橙花まゆ)「答えなさいっ……いつから……いつから翠菊さんは居ないのですっ……!」 (赤花美琴)「だか……ら……うぐ……けほっ……ぐ……今朝から……ずっと……えぅ……ぐ……」  すると突然彼女は赤花美琴を開放しその身体を重力に任せた。 (赤花美琴)「けほっ……けほっ……ぐぇ……う……」 解放された頸動脈の血流に刺激されむせた彼女の下に藍 早苗が身を伏せ駆け寄る。 (藍 早苗)「大丈夫かい?」 (赤花美琴)「え、えぇ、……何とか」 そして彼女を見上げた二人の眼は確かに鬼気迫るもので、それは普段であれば十分に他者を威嚇出来ただろう。しかし彼女の乱れた髪から透けて見える赫く血走り沸き立つ虹彩がその全てを蹂躙し強引に押し黙らせた。 (橙花まゆ)「……翠菊さんの部屋に行きますわ」 やがてふらりと身を翻すと橙花まゆはそう言い残し、それまでの狂乱が嘘のように希薄な存在感をともなって応接間を出て行くのだった。 (藍 早苗)「待て! ……部屋に行くって、鍵はどうするんだい?」 (橙花まゆ)「ご心配なく。私もマスターキーを持っておりますので。……肌身離さず、ね」 橙花まゆはそう言葉を零し人差し指と親指で鍵をつまんで皆に見せると部屋を一瞥し姿を消した。 (藍 早苗)「……僕達も行こう。今はバラバラになっていいタイミングじゃない」 (赤花美琴)「そ、そうだね……」 (青桐みすず)「……」 (黄蓮みつみ)「あさみちゃん……」 橙花まゆの後を追い全員が階上へと駆け上がると、 「いやぁあああ!!!」 悲痛な叫び声が木霊しそれぞれの鼓膜を痺れさせた。 それは最悪の結末を予感から確信に変える致命的な絶叫。悲劇の観客者を強制的に舞台へと引き摺り込む悪魔の呼び声だった。 (藍 早苗)「どうしたんだ、橙花さんっ……」 (橙花まゆ)「あさみ、あさみが……そんなっ……」 (赤花美琴)「紫苑さんが……どうしたの……?」 赤花美琴は恐る恐る疑問形で尋ねたが、その言葉が結論ありきである事は声の震えで誰もが理解していた。そして遂に覚悟を決めた赤花美琴と藍 早苗が室内に眼を向けると、 (赤花美琴)「あ……あ……」 (藍 早苗)「ぐっ……」 ――喉が、焼けるように熱い。 2人がまず同時に思い知った感覚はそれだった。全身の力が抜け床に両膝を強く撃ちつけてしまったがその痛みを意に介す余裕も無く、部屋を満たしていた甘い香りはすぐに掻き消され鼻の奥底が鉄錆の匂いに溺れ麻痺した。 (黄蓮みつみ)「ど、どうしたのさ、大丈夫……?」 (藍 早苗)「来るなっ!!!」 (青桐みすず)「ひっ……!」 (赤花美琴)「みすず、来ちゃダメっ……う……ぐ……」 しかし、少女達は見ざるを得ない。現実を。惨劇を。そうでなくてはこの先、何に諍うべきなのかさえ分からないままになってしまうのだから―― (橙花まゆ)「あさみ……あ……あ……」 そこは、何もかもが極端なコントラストに彩られた世界だった。 ベッドや床一面を埋め尽くすカサブランカの白と、狂い咲いた彼岸花のように滴り染め上げる鮮血の赫。 百合の微睡む甘い匂いと、生命の終焉を囁く鋭い鉄錆の匂い。 そして、――永久に眠る紫苑あさみの安らかな表情と、残された少女達の慄然とした形相。 (橙花まゆ)「いや、いやぁあああ!!!」 紫苑あさみは、恐らく庭園から刈り取られたものだろうカサブランカに彩られたベッドの上でそっと眼を閉じて横たわっておりその亡骸もまたカサブランカに包まれている。今まで生きてきた中で幸か不幸かまだ一度も人の死を直視した事の無い無垢な少女ですらその概念を瞬時に理解してしまう程に艶やかな鮮血が床一面にも散らしてある百合を緋く染め上げていた。 (黄蓮みつみ)「ど……どうして……」 (青桐みすず)「っ……」 (赤花美琴)「何でっ……何でこんな事にっ……!」 嗚咽と沈黙、嘔吐と絶叫。 既に陰惨な死体を目撃し精神の奈落を経験したせいだろうか、それらの無秩序に支配された密室の中で彼女――藍 早苗だけが真っ直ぐに前を見据えていた。 (藍 早苗)「……」 (赤花美琴)「ちょっと、早苗さんっ……!? 何を……」 彼女はゆっくりと、だが確実に一歩また一歩ベッドへと近づいてゆく。そしてその手を紫苑あさみの亡骸へと伸ばし―― (藍 早苗)「くっ……やはり……」 今現在ベッドのそばに居るのは藍 早苗だけであり彼女自身の身体に遮られ彼女が紫苑あさみの何を見てその言葉を漏らしたのか誰にも理解する事が出来ない。 (赤花美琴)「ねぇ……早苗さん……? な、何がやはり、なの……?」 (藍 早苗)「あぁ、それは……」 (橙花まゆ)「やめさない、触らないで、……あさみに触らないでぇ!!!」 振り向いた藍 早苗が口を開いたその刹那、――精神が遂に張り裂け気のふれた橙花まゆが怨嗟の言葉を吐き捨て四肢を無軌道に振り回し始めた。 (黄蓮みつみ)「ちょ、危な……うわぁああ!!!」 舞い散る短命の百合達。その繊手は葉の淵で無数、線上の傷を刻みつけられてゆく。 (橙花まゆ)「認めない、認めないっ……私はこんな事、こんな事絶対に認めないぃぃぃ!!!」 やがて指先に、手のひらに、甲に、白腕に血液が滲みそれはカサブランカと共に飛散する紫苑あさみの雫と溶け合って一つになり肘の先から滴り堕ちる。 (橙花まゆ)「あァ……あさみ……あさみの、血…………ダメじゃない……零れちゃう……零れてしまうわ……」 その瞳は、黒。眼に飛び込むあらゆる可視放射の情報を遮断してしまう程の、純黒だった。 そしてよろよろとベットへ近づくと、彼女は膝をつき血だまりを手で掬いながら、 (橙花まゆ)「ダメよ……ダメじゃない……こんなに零したら……ほんと、本当にあさみは、……」 (赤花美琴)「っ!? 橙花さん、何をっ……!?」 自身の手のひら、小指側の淵に舌を這わせぴちゃぴちゃとソレを舐め取ってゆくのだった。 (藍 早苗)「やめるんだ、橙花さんっ……!」 (橙花まゆ)「ダメよ……ダメ……こんなに……零しちゃったら……ダメじゃない……床だなんて汚わらしい、……だったら、だったら私が……私の胎内に……」 ――ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃ。 彼女が奏でる唾液塗れの愛情表現に誰一人として動く事は許されず藍 早苗が辛うじて制止しようとしたそれ以降は声を出す事すらも叶わなかった。自身の白いワンピースは身体の正中線中心に血で染め上げられ、特に腹部は放射状に広く緋色と化している。 (橙花まゆ)「ねぇ……こんなに零しちゃって……ねぇ……貴女のものなのに……だから……」 そのまま四つん這いになった彼女は床を這い、ベッドまでたどり着くと身体をもたげて紫苑あさみを慈愛に満ちた熱っぽい眼で見つめ、 (橙花まゆ)「ねぇ……起きてよ……起きて……コレが足らないって言うなら……私がたくさん集めて来たからっ……ねぇ、ねぇ……!」 そして――ベッドの血だまりを同じように掬い取ると口に含み、自身と彼女のくちびるを優しく重ねた。 ――ごぽ、ごぽ。 口元に付いた粘性の高い泡が、表面張力の限界にともない弾ける。流し込まれた体液は不自然に彼女の咥内を、咽頭、喉頭、食道を滑り流れ、 (橙花まゆ)「あ……」 やがて胸部や腹部の彼岸花からこぽこぽと小気味良い音と共に排出されるだけだった。 (橙花まゆ)「あ……あ……あ……」 もう一度。もう一度。もう一度。もう、……一度。 何度繰り返しても、彼女は二度と微笑まない。 (藍 早苗)「……もう、いいだろう」 藍 早苗はそう言うと橙花まゆの肩に手を乗せ、 (橙花まゆ)「うわ、あぁあ、あぁあああ……」 壊れた彼女を後ろからそっと、抱き締めた。 (赤花美琴)「じゃあ後は……よろしくね、みつみさん、みすず……」 時折引き攣った呼吸音を響かせる以外は何の反応も示さない、人形のようになった橙花まゆを青桐みすずと黄蓮みつみが部屋から連れ出した。 (黄蓮みつみ)「うん……」 (青桐みすず)「隣の部屋に居るから、待ってるからね……」 隣の部屋は今回の旅行で使われておらずずっと施錠されたままだった。もし犯人がマスターキーを持っているのなら何処に居ようが危険度は同じ、そう判断しせめて距離の近い隣の部屋で橙花まゆを落ち着かせる事になったのだった。 (赤花美琴)「一応室内に誰も居ない事は確認したけど……気をつけてね」 三人を見送るとドアを施錠し再び赤花美琴は室内へと戻る。すると藍 早苗が興味深げにベッドを見下ろしていた。 (赤花美琴)「早苗さん……どうしたの……?」 亡骸に物怖じしない彼女にこの猟奇的な事件とはまた別の恐怖を感じないわけではないが、現状で一番頼りにしているのも確かだった。 (藍 早苗)「いや、……ちょっと気になってね」 (赤花美琴)「気になるって……そういえばさっきも言ってたよね。何?」 (藍 早苗)「あぁ、……こっち、来れるかい?」  その一瞥で、赤花美琴の背筋に冷たいぞわぞわとしたものが這い上がる。 (赤花美琴)「っ……!?」 しかしそれは永久に眠る紫苑あさみや冷静に対処する藍 早苗に対する恐怖というよりも、――自身に対する震悚だった。 踏み出したら、きっともう私は――戻れない。 第三者から見れば既に事件の関係者でありあまつさえ被害者となってしまう可能性を持つ立ち位置にあるだろう。しかしそれでもまだ、本人としてはこの猟奇の深層に踏み込む自分と何も知らずただ脅え震え心を閉ざす自分との境界線上に居た。 この一歩は、そのラインを超える事を意味する。だから彼女は今、震えているのだった。