グルグルと、眩暈がする。 彼女が口にした言葉が急には全て受け止められず、その一節一節を噛み砕き飲み込むたびに吐き気に苛まれる。 その呼吸は深く荒く、酷く断続的になってしまった。 唾液を、上手く呑み込む事が出来ない。喉が呑み込み方を忘れてしまったようだった。 狂々と、思考が廻る。 (女王様)の貌が浮かんでは引き裂かれてゆく。 本当は、薄々感じていた事だったのかもしれない。 所詮自分は、学校で暇を持て余していた彼女の気まぐれが許した存在に過ぎなかったのだと。 それでも、それでも彼女は私にとって―― (お姉様)「だからさぁ、分かったでしょ? このバカンスが終わったらもう彼女には関わらないでね? その方が貴女のためにもなるし。……大丈夫よ、あの娘気まぐれだもの、貴女の事なんてちゃんと忘れて新しい玩具をすぐに見つけるから。もっとも、その新しい玩具も私が何とかいなくちゃいけないんだけどね……まったく、メンドくさいったらありゃしない」 その声は彼女の鼓膜をゆさぶるが聴神経に到達しない。 今、彼女の思考回路を満たしているのは赫と黒が溶け合わず入り混じる、ギトギトした醜い感情の膿だけだった。 その膿の狭間に、(女王様)との記憶が飲み込まれてゆく。沈んでゆく。彼女の彼女なりの笑顔が、視線が、優しさが―― (お姉さん)「……ねぇ、聞いてる? だいたいさぁ、貴女達の関係はそーゆー世界の中でも特に異質なのよ。何だっけ、あぁ【百合】ってヤツ? ったく、貴女達はそんな綺麗なもんじゃないでしょうに。だって知ってるのよ私、……貴女が常に、それが例え真夏の海辺だとしても肌を見せない理由を」 (気弱ちゃん)「っ……!」 その一言で、彼女の世界が崩壊する。 沈みゆく(女王様)との記憶も、赫黒い粘つく感情も、何もかもが破片となって飛散し視神経と聴神経が室内と(お姉さん)を知覚した。 途端にあふれる、とある感情―― (お姉さん)「あらぁ? 急に怖い顔してどうしたの? もしかしてそこまではバレてないとでも思ってた? 残念ざんね〜ん、ちゃんとそこまでリサーチ済みよ?」 ……この部屋を出た後の事は、何も分からない。 ……でも、今ここでしなければならない事が、明確になった気がした。 (お姉さん)「まったく、貴女達の頭の中ってどうなってるのかしら? お花畑もイイトコロね。(女王様)じゃなかったらとっくに警察沙汰よ、そりゃああんなの見たら男はドン引きだし……」 ……違う。 ……今、明確になったんじゃない。 ……最初から、彼女を睡眠薬で寝かしつけた時から、それは明らかだったじゃないか。 ……そのために私は、調理室からこんなものまで持ち出して。 (気弱ちゃん)「……ど、……ら、……あげる……」 震える声が、宣告した。 (お姉さん)「え、なぁに?」 ケラケラと嗤う彼女に、惨劇の幕開けを、稟告した―――― (気弱ちゃん)「男なんてどうでもいい、けど……そんなに気にいったなら、貴女にもつけてあげるっ!!!」 ぎぃ、と扉が静かに軋んだ。それは風に掻き消され、だから部屋に居たこの島唯一の男性――船発着場にある小屋で待機していた男性乗務員の耳には届かない。 「……そうそう、ったく、お嬢様の冗談も大概だよなぁ。だいたい、もし本当にクルーザーが故障したとしても俺一人以外全員引き揚げるなんてありえるかっちゅーの」 男は予めこの小屋に隠してあった無線機で本土と連絡を取っている最中だった。 そう、このアクシデントは全てが予定調和。何もかもが戯言。 「……はいはい、じゃあ何も無ければまた明後日の夜に連絡しますんで。うぃっす、お疲れ様っした」 通信を終えた男は持ち込んだDVDを再生し成人向け雑誌を広げ酒にツマミと、自堕落で退屈な時間を満喫し始めていた、――その、矢先。 コン、コン。 誰も来ないはずの、全てを知っている(女王様)ですら無い物として扱っているこの小屋に、突然の来訪者。 「……誰だ? (女王様)、ですかい?」 今現在、この孤島には若い女性しか居ない。性別の差、体格の差を慢心していた男は不用意に扉へと近づき鍵を開けてしまった。 途端に、電灯もつけていない通路の闇から、悪意があふれだして―― ――べとり、べとり。 予定調和の脚本を塗り潰す緋色の飛沫が一つ、また一つ。 そして再びその扉が閉じられた時、小屋からはもう物音一つしなかった。 (主人公)「おはよう……ございます……」 (幼馴染)「おはよう、(主人公)!」 (ボクっ娘)「おっはよ〜う!」 翌日。 皆が目を覚まし、自主的な朝食の用意も徐々に進んだ時だった。 (クール)「(気弱ちゃん)、見たかい?」 (主人公)「え? えっと……そういえば今朝はまだ見てないです」 (クール)「そうか。どうやら部屋にも居ないみたいなんだ」 (ボクっ娘)「あれ、(お姉さん)も居ないのかな〜? それとも大人の女性は朝に弱いのかな、な〜んてね!」 皆で島内を散歩する予定のために起床時間は昨日のうちに決めてあった。にもかからわずその二人が見当たらないとの事だった。 (ボクっ娘)「ちょっとボク、(お姉さん)を起こしに行ってくるね〜! それともお化粧の真っ最中なのかな〜、にゃはははは!」 (主人公)「朝食の準備もだいたい終わったし、私も行きますね」 (クール)「あぁ頼む。……(ボクっ娘)だけだと朝から不機嫌な人間が増えてしまうかもしれないからね」 コンコン。コンコンコンコン。 (ボクっ娘)「もしも〜し! お姉さ〜ん! 起きてますか〜、もしも〜し!」 コンコン、コンコン。……コンコンコンコンコンコンコンコン!!! (主人公)「ちょ、ちょっと(ボクっ娘)さん、あんまりやりすぎないでください!」 (ボクっ娘)「えぇ〜、だって何の反応も無いんだも〜ん!」 口を尖らせふくれっ面をする彼女を差し置いて(主人公)がドアノブを捻るが当たり前のように施錠されている。続いて耳を扉に押し当てるが特に何の物音もしない。シャワーを浴びているという事も無さそうだった。 (主人公)「う〜ん……どうしましょうか……」 (ボクっ娘)「もうほっとこうよ〜、ど〜せそのうち起きて来るでしょ! 別にぃ、今日はバカンスなんだからダラダラしても問題な〜しっ! ってね!」 (主人公)「まぁ確かに……これだけノックしても反応が無いんじゃしょうがないですよね」 2人が階下へと降りて来ると、応接間から大声が聞こえて来た。 (主人公)「……? 何だろう?」 (女王様)「(気弱ちゃん)は? (気弱ちゃん)は何処に行ったの!?」 (幼馴染)「お、落ち着いて(女王様)さん……」 (クール)「そうさ。どうせ朝早い時間に目が覚めて気晴らしに散歩でも行ったんだろう」 (女王様)「もう予定の起床時間をとっくに過ぎているのよ! (気弱ちゃん)が時間を守らないだなんてありえないわっ!」 (ボクっ娘)「うっひゃあ……荒れてるねぇ」 昨日までの態度とは打って変わり取り乱す(女王様)に気圧されながらも、戻った二人は(お姉さん)の部屋から何の反応もない事を報告した。 (主人公)「どうも、部屋には居ない気がするんです……」 (クール)「そうか……二人していったい何処に……?」 (ボクっ娘)「一緒に居るのかなぁ〜? そんなに仲良しさんには見えなかったけどね〜」 (幼馴染)「(ボクっ娘)さんっ……!」 空気を読んでか読まずか、変わらず奔放な発言を繰り広げる彼女に対し(女王様)が敵意の視線を向けたその瞬間、 (クール)「ともかく、探しに行こう。幸い天気は良い。さっさと食事を済ませて……」 するとその言葉を遮るように(女王様)が部屋の隅へと駆け出し、内線電話を手に取った。 (女王様)「何で……何で出ないのよ……これだから男はっ……」 そして電話の相手が出ない事を悟ると、乱暴に受話器を叩き付けるのだった。 (幼馴染)「ひっ……」 (クール)「……何処に掛けたんだい?」 (女王様)「港よ! あそこにある小屋に掛けたの! なのに何で誰も出ないのっ!?」 船発着場の小屋に男性乗務員が待機している事は全員が知っている。そして、三人目の行方不明者が出てしまったという事も―― (主人公)「何が起こっているの……?」 (幼馴染)「(主人公)……」 (女王様)「何なの? 何なのよ!? まさか、まさかあの男っ……」 彼女はそこで口を噤んだが、その先に続くだろう言葉を全員が連想した。途端に息を飲み互いに顔を合わせる。 (クール)「落ち着くんだ、(女王様)。そういう事は頭の中だけに留めておいてくれ」 (女王様)「そんな悠長に言ってる場合ではっ……やはりこの島に男だなんて居させるべきではなかった、あんな存在でも何かの役に立つだろうと私が甘い顔をしてしまったからっ……」 振り上げた華奢な拳を形振り構わず電話が置かれた小さな台に叩きつけると、彼女は身を屈め艶めいた髪や頭皮を乱暴に掻き乱しくぐもった呻き声を漏らした。その繊手、白魚のような指先が見る間に赫黒く染まりその場に居た誰もが声を掛ける事も出来ない。 そしてそれはほんの数分の事だったろうか、彼女らにとっては悪夢のように長くも感じられたがともかく(女王様)は突然身を起こし顔にかかった髪をそのままに透けて見える眼を滾らせて呪いにも似た低い声を上げた。 (女王様)「……港に行きますわ」 その重い響きに一同は口を開く事が出来ず、そして彼女は気にも留めない様子で応接間を出て行った。 (ボクっ娘)「……あぁ〜、ビックリしたぁ〜」 (幼馴染)「こ、怖かったね……」 (主人公)「……」 ようやくその呪縛から解き放たれた彼女達。そして、 (主人公)「ど、何処に行くんですか、(クール)さん!?」 最初に行動を示したのは(クール)だった。 (クール)「僕は彼女の後を追う。君達はここで待っていてくれ。戸締りは厳重に、ね」 (主人公)「そ、それなら全員で……」 (クール)「ダメだ。(お姉さん)さんや(気弱ちゃん)が戻って来た時にすれ違ってしまうからね。三人離れず、ここで待っていてくれ。重ねて言うが、鍵は入念に、ね。幸いこの応接間にも付いているし、ここから一歩も出ずに待っていてくれ。なに、港の小屋の様子を見て戻って来るだけだから三十分もかからないだろう」 (主人公)「……分かりました。(クール)さんも、お気をつけて」 (ボクっ娘)「にゃはは、行ってらっしゃ〜い!」 (クール)「……まったく、やはり全員では行けないね」 (クール)はそうため息をつくと、足早に部屋を飛び出し(女王様)の後を追うのだった。 (クール)「……?」 洋館のエントランスホールを出ると、明らかな違和感が彼女を襲った。それは思考を巡らせる必要も無く明確なもので、眼前の庭に植えてあったはずの花がごっそりと無くなっていたのだ。 (クール)「いったい誰が……?」 その花の名は、――カサブランカ。 小屋に着く直前に、(クール)は(女王様)に追いついた。 (女王様)「あら、……誰かと思えば。珍しいですわね」 (クール)「誤解しないでもらいたいね。僕は(気弱ちゃん)が心配なだけさ」 (女王様)「……そう」 小屋の入り口の扉に鍵は掛かって――いない。 ぎぃ、という音をたていとも容易く開いた。 この建物は本当に簡易的なもので、扉を潜ると狭い物置兼通路がありその奥に一部屋の管理室兼仮眠室があるだけだった。 (クール)「電灯のスイッチは……あれか……?」 そして(クール)が扉から差し込む可視放射を頼りに一歩足を踏み入れると、 ――ぴちゃ。 液体を、踏んだ音。 (クール)「何だ…………っ!?」 足元へと落した視線が、その正体を認識する。 それは通路の床一面に広がる、――明らかに緋い色素を伴った液体だった。 指先が、震える。 これ以上足を動かす事が出来ない。 スイッチまでその距離はほんのわずかだというのに、その距離がたまらなく怖かった。 (女王様)「……電灯を、つけて」 背後から、冷たい囁きが響く。それは今まさに(クール)が感じた恐怖を瞬く間に塗り潰す程の無慈悲さを秘めていた。 (女王様)「……早く」 (クール)「くっ……」 その数十センチが、遠い。 ゆっくりと、何かを恐れるかのように手を伸ばしたらそのまま暗がりに引き込まれていきそうで、(クール)は乱暴に、全速力で手を突き出しスイッチを叩きつけた。 ――パチ、パチ。 蛍光灯特有の瞬きの後、昼光色の冷たい可視放射が通路を照らし出す。 (クール)「ぐっ……」 (女王様)「……」 廊下は左右にびっちりと金属製のラックが備え付けられ道具箱や籠が敷き詰められているせいで電灯が付いてなお闇が多い。そもそも客人を出迎える施設ではないため電灯自体が簡易的なもので仄暗かった。 そして、――その青白く頼りない蛍光灯が、男性乗務員の亡骸を照らしていた。 後頭部に大振りの鉈を叩き込まれ、ひしゃげた皮膚の裂け目から血と肉と骨と脳らしきものが脳漿で攪乱され泡立ちあふれている。湧き出た多量の体液はその大半が乾いてはいるが真夏でもひんやりとしたこの通路の環境がそうさせたのか一部はまだ瑞々しくそれが(クール)の靴を染めた。人工的な昼光色のせいか辛うじて現実感は薄く、しかしその光景は年端も行かぬ少女の精神を蝕むには十分過ぎる。 (クール)「うっ……」 口元を手で押さえる、という表現は似つかわしくない。顔面の下半分を強引に握り込みもう片方の手で喉元を絞めてようやく、彼女は嘔吐せずに済んでいた。朝食を取らずすぐにここへと向かって良かったと安堵すらしている。 (女王様)「……どきなさい」 (クール)「(女王様)……何処へっ……?」 (女王様)は体液の沼地を意に介さず奥の部屋へと向かっていた。半ば乾いた血が彼女のハイヒールに纏わりつき絲を曳いてもその毅然とした態度は変わらず、そのまま部屋へと続く扉に手を掛ける。音も無く開く扉を抜ける寸前に(クール)を一瞥した彼女は表情を変える事無くそのまま奥へと消えた。 (クール)「おい、待て! ……くっ!」 この場に留まるわけにもいかず彼女を見捨て外に出るわけにもいかず、(クール)は覚悟を決めると脇目もふらずに亡骸を越え(女王様)に続いて入室した。 (クール)「……酷いな」 室内は荒らされ、特に机の上にあった無線機と思わしき機械は完全に壊されている。 (クール)「こんなものがあったのか。せめてこれが無事なら……」 他には小さなテレビ、DVDプレーヤー、そして卑猥な雑誌。呑みかけのアルコール類や食べかけの食べ物。男性が適当に時間を潰すには十分なものが揃っておりそれが軒並みぐしゃぐしゃにされていた。 (クール)「(何故こんなものまで荒らして……?)」 彼女の疑問は、しかし(女王様)の行動によって掻き消される。 (クール)「お、おい、今度は何処へ……」 (女王様)は通路に戻ると亡骸の傍らに跪きその身体に手を伸ばした。立ち尽くす(クール)の問い掛けを無視し一心不乱に弄る彼女が事情を口にしたのは、その数分後。 (女王様)「……無いわ」 その声質に感情は見当たらず、死体という非日常を目の当たりにしてなおただ淡々と事実を報告しているだけだった。 (クール)「無い、って……何が、なんだい?」 すると彼女はその肢体を普段はあれ程忌み嫌っている男性の身体に這わせるように身を屈めると、体液塗れになる事なんてどうでもいいと言わんばかりにその亡骸のありとあらゆる部位にその繊手を絡めてゆく。 (クール)「お、おいっ……いい加減、僕の質問にも答えてくれっ……何が見つからないんだっ!!!」 思わず声を荒げた(クール)に対し、ようやく動きを止めた彼女はゆっくりと身を反り起こす。緋色、黒、そして半透明上の正体不明な白を、その艶髪、白磁の肌、そして白いワンピースに付着させ無感情のままに仄暗い電灯で照らされる(女王様)はある種芸術作品のようで、(クール)はいつかネット上で見た球体間接人形展の画像を何故か思い出していた。 しかしそんな混乱故の現実逃避的な連想も、彼女の呟いた一言で霧散する―― 「この不佞の輩が持っていたはずの、……マスターキーが、よ」