小酒井宇佐岐(こさかい うさき)  黒岩瑠璃子 (くろいわ るりこ)  甲賀美汐  (こうが みしお)  甲賀義宗  (こうが よしむね)    私――黒岩瑠璃子と小酒井(さんは、休日になるとしばしば街へと出かける。  服を買ったり本屋によったり……日によってすることは様々だが、決まってその帰りには喫茶店によることを習慣としていた。 「――だから――で」  一月も半ばに差し掛かろうという頃。  今日は特に何の収穫もなく、ぶらぶらと二人で街を散策しただけに終わった。  その後、例のごとく喫茶店を訪れた私たちは専用の席(勝手に決めているだけなのだけれど)に腰かけると他愛もない会話に花を咲かせていた。  会話と言っても、実のところ小酒井さんと私は違う学校に通っているものだから、最近読んだ小説や友人の話といった、半ば近況報告染みたとりとめのない話題が大部分を占めていた。 「それで――だったわけ」  彼女の話がひと段落したので二人で示し合わせたようにカップを口元に運ぶ。すっかり冷えてしまった珈琲だったが、程よい苦みが舌に心地よい。  横目に窓の外を見ると冬ということもあってか、もう既に日も落ち暗くなっていた。雪もちらつき始めている。 「……そろそろ良い時間だし、帰る?」  小酒井さんは左手首につけた時計を見たあと、そう言ってこちらを見る。  喫茶店にいる時間が今日は少し短かったせいだろう。正直に言うともう少しだけ彼女とこうして話していたかった。けれども、私の門限を考えるとそういうわけにもいかないし、彼女もわかって配慮してくれているのだろうからしょうがない。私は口元にカップをやったまま、こくりと頷く。 「うん、あんまり遅いとお母さんにも心配かけるからね」 「瑠璃子のお母さんは心配性だからねぇ」  快活に笑う小酒井さんにつられて、思わず苦笑する。  確かに、母はとても心配性だ。  たまにちょっと行き過ぎなところもあるけれど……それは私の父が早くに亡くなっていることを考えると仕方のないことだと思う。  母の心配は、父の分も含めて。  一応それは理解しているのだけど、子どもの頃ならともかく高校生になった今も変わらないのだから困ったものだ。  そう考えている私も、ついついその気持ちに甘えてしまうことが多いのでしっかりしないといけない。目の前にいる小酒井さんのように、ちゃんとした自立心を持った格好の良い女の子にならないと。 「どうしたの、瑠璃子。ぼーっとして」 「え、あ。ごめん。ちょっと考え事しちゃって」 「たまにそういうことあるよね、瑠璃子。自分の世界に入っちゃうというか」 「うー……そうかな」  思わず頬を掻く。  気恥ずかしい。一度、思考の海に落ちるとずぶずぶと引きずってしまうのは私の悪い癖だ。 「まーそういうのも瑠璃子らしいけどね」 「らしい、かぁ」  一体、小酒井さんの中での私のイメージはどうなっているのだろう。  ……自分ではなるべくお淑やかに見えるように振舞っているつもりなのだけれど。彼女からは子どもが無理に大人ぶろうとしているようにしか見えていないのかもしれない。 「ん、可愛いっていうことだよ」 「小酒井さん……」  「はっはっは、そんな顔で見ないでよ。……まぁ冗談抜きに瑠璃子は同性の私から見ても可愛いと思うけどね」 「うー……」  呻いてしまう。  小酒井さんは時折こういうことを真顔で言うので困る。  私はあまり褒められることに慣れていないせいか、こういうことをされると、どうすればいいのかわからなくなってしまうのだ。 「あう……」 「ふふふ……もう、本当に可愛いな、瑠璃子。撫でたくなっちゃうじゃあないか」 「うう、やめて小酒井さん、ほんと恥ずかしいから……」  小酒井さんの指先が私の髪を軽く撫でる。  周囲の席にはまばらだが、まだ人もいる。傍目にはどう見えているのだろう、そんなことを考えると自分でも顔が真っ赤になるのがわかった。 「瑠璃子の髪の毛、本当に綺麗だよね」 「そんなことないよ……私、癖っ毛だし……小酒井さんの方が凄い綺麗だし……」 「私はただ長いだけ。瑠璃子みたいなのが本当に綺麗っていうの」  そんなことを言いながら、依然としてその細い指先で撫で続けてくる。  でも、こうして彼女に頭を撫でてもらうのは……嫌いではない。先ほどは恥ずかしさから照れ隠しに否定の言葉を吐いたけど、本心としてはもうちょっと続けてほしいくらいだった。 「うりうり……って、ありゃ?」  不意に、小酒井さんの手が止まる。  若干の物足りなさを感じつつも、目線を小酒井さんにやると小酒井さんは喫茶店の外を見ていた。 「どうしたの?」 「いや、ちょうど窓の外を見たら美汐さんがいてさ」 「美汐さんが?」  ――美汐さん、というのはこの喫茶店『くろねこ』の店長の娘である甲賀美汐さんのことだ。  彼女は時折この店のウェイトレスをすることがある。そのため、この店を利用することが多い私たちとはよく顔を合わせるのだ。  とはいっても、私たちと美汐さんでは少し年が離れているから、その関係は友人と言うよりは悩み事などを相談できる頼れるお姉さんという感じだった。 「ああ、美汐さんが男の人と一緒だったから」 「へぇ、なんだろ。彼氏さんかな」 「美汐さんに彼氏、ねぇ」 「小酒井さん、今とっても失礼なこと考えてるでしょ……」  美汐さんには失礼だが、確かに小酒井さんの考えもわからないでもない。  それほど長い付き合いではないから、イメージで語ることしか出来ない。けれども、良く言えば姉御肌、悪く言えば大雑把という感じの人だ。感情の機微には敏いのだけれど、それ以外では万事が万事、何事にも適当 だから色恋沙汰とは無縁な人だと勝手に思っていた。  というか、そもそも男の人に興味がない――と言っていたような気さえもする。 「案外あれだ、舎弟とか」 「流石にそれはないんじゃないかなぁ……」  うーん……でも意外にありえないことではなさそうなのが美汐さんの怖いところかもしれない。  性格もさっぱりしているから、男女問わず慕う人は多そうだ。  なんて、私たちがそんな話をしていると店先に配されたドアベルの音が店内に響く。  小酒井さんが見たと言っていたのだし、やはりというべきだろう。扉を開けて中に入ってきたのは件の美汐さんだった。 「美汐さん、こんばんは」  私たちの席の近くを通りかかったところ、小酒井さんと一緒にそう言ってお辞儀する。 「お、二人とも珍しいね、こんな遅くに。時間は大丈夫なの?」 「ええ、ちょうど帰ろうかって話を瑠璃子としていたところです。美汐さんはどこかに行ってきた帰りですか?」 「ん、知り合いに誘われてた用件を軽く消化してきたとこ」 「まぁいわゆる『これ』ね」  くいっ、と盃を飲むような動作をする。  飲み会――? いずれにしても、知り合いに誘われていた用件か。  はたして、恋人というのは邪推だっただろうか? 案外気恥ずかしさから隠しているだけなのかもしれないが、あくまで予想だし下手に勘ぐるのは止しておこう。 「はて、店長はカウンターの奥かな? あたしってここの身内だからホントは裏口使わないとなんだけどさ。裏まで回るのが面倒で楽をしたからねー。バレなくて良かったわ」  「何せ、この寒さだし」と、すっかり赤くなったむき出しの指先を擦り合わせながら美汐さんが言う。  確かに、雪もちらつきはじめている外で手袋もせずにいたのなら仕方のないことだろう。一刻もはやく温かいところに入りたいという気持ちもあっただろうし、美汐さんと同じ立場なら私もそうしていたと思う。 「……ほう。バレなくて良かった、だと?」  ……あ。 「あ、え? ……あ!」  素っ頓狂な声をあげて驚く美汐さん。つられて私と小酒井さんもビクリと体を跳ねさせると、美汐さんの視線の先を見る。 「他の客の迷惑になるから静かにしろ」  一体、いつからそこにいたのだろう。  美汐さんの背後からぬっと姿を現したのは……美汐さんの父であり、この店の店長である――甲賀義宗さんだった。 「全く、常日頃から言っておるだろうが。店内に出入りするなら裏口から入れと」 「あはは……ごめん、父さん。あんまり寒かったもんで」 「……父さんじゃなくて店長、一体何度言ったらわかるんだ」  眉間に皺を寄せながらクドクドと美汐さんに説教を続ける店長。流石の美汐さんも自分に非があってか頭があがらないようだ。  しかし……店長が近くに来ていたのに全く気がつかなかった。私と小酒井さんが席で談笑していた時には奥の方へと引っ込んでいたはずなのだが。 「ごめんな、宇佐岐くんに瑠璃子くん。うちの娘が邪魔をして」 「いえ、全然そんなことないですよ。そもそも美汐さんを呼び止めたのは私たちですから」  ははは、と苦笑じみた愛そう笑いを浮かべながら、そう返す小酒井さん。  ちなみに、店長が言った宇佐岐くんというのは小酒井さんの名前だ。ウサキ、というなんとなく可愛い感じの印象を受ける名前だが凛々しい外見とは裏腹に茶目っ気のある小酒井さんには不思議ととても合っているように思える。 「……美汐。この際だから言うがな。お前はそんな大雑把だからいまだに彼氏も出来ないんだぞ」 「うわ、失礼。父さん失礼だよ、それは。そもそも今の話と関係ないし!」 「店長、だ」 「はいはい、わかってるから。というか、私は彼氏が出来ないんじゃなくて作らないだけだってば。前から言ってるでしょうに」 「また都合の良い言い訳をして」  そういえば、そんなことを以前言っていたような気もする。  確か……そのための対策も講じているとか聞いた気がするけど、その辺りの話は世間話の一環としてだったので、記憶になかった。特別掘り下げることもなかったし、仕方のないことだろう。   「ぐぬぬ、なんでわかんないかなぁ。この美貌を見ればわかるでしょ」  そう言ってひらりと身をひるがえす美汐さん。  冗談めいた口調だけど、確かに美汐さんは綺麗だと思う。容姿だけではなくプロポーションも抜群だし言い寄ってくる人も多そうだ。彼氏なんか作ろうと思えば簡単だろう。  私は思わず自分の平坦な体と比べてしまう。  ……何も、言うまい。 「それに、私が彼氏なんか作っちゃったら父さんが怒り狂いそうだもん」  唇に親指を当て、美汐さんは意地悪い笑みを浮かべる。  態度はあんな風だけど、店長はああ見えて美汐さんのことを溺愛している。最も、当人の前ではそんなことは口が裂けても言えないが。 「……ふぅ、我が娘ながら残念な子だ」 「し、失礼な……」  一瞬だけ店長に焦りの色が見えたのは気のせいだろうか。  そんな反応を余所に、悔しげな表情で店長をじろりと一瞥した美汐さんは「もういいよ!」と言ってカウンター脇にある店員用入口の方に向き直る。  だが、いささかタイミングが悪かった。  美汐さんは振り向きざま、トイレに立ったと思しき女性客と軽く肩をぶつけてしまう。 「す、すみません。よく前を見てなくて」  美汐さんがそう謝罪すると、女性客の方もいかにも申し訳ないといった風な面持ちでお互い何度も謝罪を繰り返す。なんだか延々と続きそうだったが、数度目に女性客の方が苦笑しながら「そんなに謝られるようなことじゃないです」と言うと、にこりと微笑んでトイレに向かっていった。 「気をつけろよ、全く」 「うー……とう、じゃなくて店長ごめんなさい」  他のお客を巻き込んでしまったことに罪悪感を感じているのか、美汐さんは本当にしおらしくなっている。 普段はぶっきら棒とかそういった性質を地で行くような感じなのだけれど、こういうところは変に素直な人だ。 「美汐さん、さっきぶつかった時に落としましたよ」  横で黙って様子を見ていた小酒井さんが何か手に持ったものを美汐さんに差し出す。  なんだろう、と思ったけどすぐにわかった。 「あ、それ私の手袋。ありがとね、宇佐岐ちゃん」  ぶつかった拍子にコートのポケットから落ちたのだろう。至って普通の、毛糸で出来た手袋だ。 「拾っただけですよ。それより……本当に時間も時間なので、私たち失礼させてもらいますね」  二人を見た後、そう言って小酒井さんは私に目配せする。  ……あ。  壁にかかった時計を見ると六時半を指していた。全然気がつかなかった。門限をとうに三十分も超えてしまっている。母さんも心配しているだろうし、小酒井さんの言うとおり早く帰らないといけない。 「あー、そうだね、自分で言っときながら引きとめちゃってごめんね、外もう暗いから足元とかに気をつけて帰るんだよ」  ひらひらと手を振る美汐さん。  こくりと頷くと、店長の方に向き直る。 「店長も……長い時間すみません」 「ははは。構わないよ、黒岩くん。それより小酒井くんもそうだが、気をつけて帰るんだよ」  軽く身支度を整えると、忘れ物がないか席の周りを確認する。  私と小酒井さんは店長の立つカウンターで手早く会計を済ませると、二人に別れを告げて店内から出た。 …… ………… 「はぁ……外寒いね、小酒井さん」 「ん」  深々と雪の降る中、夜の道を行く。  人通りの多い、ネオンの輝く表通りからは少し離れた裏通り。空から射す月明かりの他には住宅街の明かりや街灯がいくつか見える程度のもので、周囲にはただ黒い世界が広がっていた。  私の家はこちら側なので、危ないけどここを通らなければならなかった。 「あのね、小酒井さん。ありがたいんだけど……送ってもらわなくて良いんだよ? 私、子どもじゃないんだし……小酒井さんの家もこっちじゃないでしょ? 帰るのが大変だよ」 「いーのいーの、私が送りたくてそうしてるんだから」  白い息を吐きながら「それに」と言葉を繋ぐ。 「こうして一緒に帰れば、もう少し長く二人で話せるでしょ?」 「え、あ、……う、うん」  予想外の言葉に、思わず目線を反らしてしまう。  もしかして、喫茶店にいた時に考えていたことがバレていたんだろうか? いや、小酒井さんはよく家まで送ってくれるしそれは関係ないか。  ……でも、小酒井さんも私と同じことを考えていてくれた。  そんな些細なことが、嬉しかった。 「しっかし、あれだね。気になるね」 「は、はひ?」 「はひ?」 「あう、はひじゃなくてはいだよ……」  妙なことを考えていたせいか、変な反応をしてしまった。  慌てて訂正するけど小酒井さんは笑っている。  誤魔化すためにも、とにかく話を変えなくては。そう考えた私は小酒井さんに聞く。 「き、気になるって?」 「ああ、うん。美汐さんのことさ」 「美汐さんのこと?」 「そう。美汐さんさ、店内に入ってきた時に寒そうに手擦ってたじゃん」 「うん、外は寒いし美汐さん手袋をしてなかったからね」 「だよね。でさ、気になるというか妙なのは……なんで美汐さん手袋しなかったの? ってことなの」 「それは美汐さんが手袋を持ってなかった……って、あ……」 「そうなんだよ。最初は私もそう思ってたけどさ、私が拾った通り美汐さんは手袋を『持ってた』んだよ。それなのに、わざと――というのも、拾った時の様子を見ると忘れてたってわけじゃなさそうだし、故意に手袋をしなかったのは、なんでなんだろって思ってさ」  確かに彼女は手袋を持っていた。  片方がなかった、というわけではない。小酒井さんが拾ったのは二つを丸めていたものだったし、一体なぜそんなことをしたのだろう。  小酒井さんが喫茶店を出た辺りからぼうっとしていたのは、それを考えていたからだったのか。態度を見て不思議に思っていたが、ようやく合点がいった。 「手袋が濡れていたんじゃないかな、だからあえてつけなかったとか」 「拾う時に触った感じでは、濡れているとは思わなかった。それに、手袋に穴が開いているようなこともなかったよ」  小酒井さんは、次に私が言おうとしていたことについても言及した。穴が開いていれば手袋をする意味も薄いと思ったのだがどうやら違ったようだ。 「えーと、それじゃあ誰かへのプレゼント、とか」 「それもないかな。贈り物にしても包装すらしてなかったし、何より所々ほつれてたよ。割合に長い期間使ってるみたい」  だとすると、全くの謎だ。  それではどうして手袋をわざわざしなかったのだろう。考えてもちっともわからない。 「考えられるのは……当てつけかな、とも思ったんだけどね」  当てつけ、とはどういうことだろう。  歩きながら思わず首を傾げてしまう。 「あの手袋が私が窓から見た『美汐さんと一緒にいた男の人』からもらったものなら、ってこと」  わざとらしくウィンクする小酒井さん。  ああ、なるほど。  それならば、話もわかる気がする。  ……小酒井さんの言いたいことは、つまりこうだろう。  仮にだが、美汐さんとその男の人が恋仲であったとする。だが、何か揉め事があってか美汐さんと男の人は喧嘩をしてしまった。どちらに非があるのかはわからないが、美汐さんは男の人に苛立ち何かしらの方法で男の人に意趣返しをしようと考えた。 そこで使われたのが、手袋だ。それが男の人からもらったプレゼントであるなら、普段からつけていた手袋をわざとデートの時に外しておく、そうして「洗ったの?」「無くしてしまったの?」などと聞かれたら冷やかな笑みで返してやれば、流石に男の人も美汐さんが何かに怒っていることに気がつくだろう。 そういうことではないだろうか。 「と、瑠璃子も思うよね」 「こ、心の中を読まれるなんて」 「小さく声に出てた。漫画じゃないんだから、気をつけなよ」  ふぅ、と小さく嘆息すると小酒井さんは言う。 「男の人、どうみても美汐さんと険悪そうじゃなかったんだよね。美汐さんもあってからそういうことを感じさせるような素振りなんて一切なかったし。瑠璃子もわかると思うけど、美汐さんにそんな嘘を隠せる器用さはないし……多分それは違うなって思う」  自分で考えておいてなんだけど、確かに小酒井さんの言うとおりだ。この理由は私ですらも不自然だと思う。  そもそも、先ほど美汐さんを評した通り彼女は大雑把というか男らしいというか、相手に非がない限りはそういった回りくどいやり方を思いっきり嫌うタイプだ。友人ならばそういった多少回りくどい方法も使用するかもしれないが、恋人という打ち解けた間柄であるなら、そういう方法はとらずに真正面から向かい合うはずだろう。  だから、かみ合わない。その動機では美汐さんの人間性とズレが生じる。身近な関係性である私たちだからこそ、はっきりと確信できることだった。 「なら、どんな理由があるのかな」  独白か、それとも私に話しかけたのか。小酒井さんは虚空を見据えたまま、呟く。 どうにも、私も気になるので少し考えてみることにした。  まずは手近なところから、小酒井さんが否定した先ほどの話だ。  あれは、絶対に間柄が恋人でなければ成り立たないことなのだろうか?  最初から考えてみる。女子校に通っている私からするとあまり馴染みのない話だが、親しければ恋仲でなくとも男の人が女性に手袋を贈るということくらいありえるだろう。その手袋に込められた下心に気づいて使わない人もいるだろうが、美汐さんならデザインが嫌いなどの理由がない限りは何の躊躇もなく使うだろうし、これは特に問題がない。  では、肝心なところ。その友人に当てつけとして手袋を外す、などといったそういうことを友人関係における意趣返しで行うことはありえるのだろうか? 答えは、否。他の人ならありえることかもしれない。しかし、今回に限っては当事者が美汐さんなのだ。そうである以上、その点だけは確実にありえないと言えた。  普段着用しているものを外して、相手への不堪を表すというのは捉えようによってはとても性格の悪いことだ。そんなことを美汐さんがするとは……どうしても考えられない。 「……ねえ、瑠璃子。美汐さんがわざと彼氏を作らないって前に話したの、覚えてる?」  小酒井さんは不意に私に向けてそんな話題を振ると、虚空から視線をこちらに移す。  どこか不思議な色合いの瞳は夜の闇の中にあっても煌煌と輝いているように思えた。 「確か、割と最近のことだと思うけど」  私は無言で頷く。そういえば、あったような気がする。  今日の帰り際に美汐さん自身もそんなことを言っていたけど、あいにくその内容までは覚えていなかった。 「その中でさ、『自分に関心のある男の人を遠ざける方法』ってことについて話してたんだよ」  自分に関心のある男の人を遠ざける方法。  話した記憶はある。けれど、やはり依然として内容は思い出せない。 「あんまり記憶がないんだけど……それって、結構長く話をした?」 「ん、全然。そういう方法を使ってるんだ〜って聞いただけ。その内容までは掘り下げることはなかったかな」  「確かだけど」と少し自信なさげに小酒井さんは言う。 「それが何か、関係あったりするの?」 「あくまで可能性の話だけどね。なんで手袋をしてなかったか、わかったかもしれない」  瞑目し、そこで言葉を切る小酒井さん。  内容を頭の中で整理しているのか、何事かを考えている風だ。 「手袋をするとさ、手が見えなくなるよね?」  ……手が見えなくなる、というのは、この場合だと手袋に隠れて素手ではなくなるということだろうか。だとすれば、当然のことだ。 「それは……手袋をすればそうなるよね」  いまいち小酒井さんの意図するところがわからない。  だが、今は黙って彼女の話を聞くことにしよう。 「そう。当然だよね。じゃなきゃ手袋の意味がないし」  小酒井さんは閉じていた目を開いて、私を見る。  こうまじまじと見据えられると照れてしまう……じゃなくて。 「私考えたんだけどさ、美汐さん――手袋をすると隠れてしまう『それ』を隠したくないから、わざと手袋をしなかったんじゃないかな」  ……うん。  またも小酒井さんの癖が出たわけだが……手袋をしてしまうと隠れてしまう『それ』とは、一体何なのだろう。  推理小説に登場する探偵さながら、小酒井さんは時折こういう風なぼかした言い方をすることがある。カンの良い人ならばわかるのだろうけど、私は生憎そういったものは持ち合わせてはいない平平凡凡ただの小市民だ。だから大概の場合、無為な思考をしつつも小酒井さんの答えをジッと待つばかりだった。 「『それ』が何か、私も歩いてる間に色々考えたよ。いくつか思い浮かんだけど、一番らしいのは多分これだと思う」  小酒井さんは息を小さく吐くと、右手の親指で左手の薬指を指す。 「美汐さん、『偽装結婚指輪』をしていたんだと思う」  立ち止まったまま、見つめあう。  偽装、結婚指輪?  ごくりと喉を鳴らす。私は、思っていたことを口にした。 「……何、それ?」  案の定、ずっこける小酒井さん。  せっかく、らしい空気ができていたのにぶち壊しにしてしまった。でも、わからないものはわからないんだからしょうがない。 「偽装結婚指輪ってのはね、本当は結婚してないけど結婚してますよってふりをする人がつける偽物の結婚指輪のこと。正式名称はないから適当な呼称だけど」 「な、なるほど」  でも、なんでそんなものを美汐さんが? 「さっきも言ったけど、美汐さん――『自分に関心のある男の人を遠ざける方法』について話してたよね?」 「あ……」  偽装結婚指輪、自分に関心のある男の人を遠ざける方法。提示された二つの事柄を結びつけるのはとても簡単だった。 「美汐さんが自分に関心のある男の人を遠ざける方法っていうのが偽装結婚指輪ってこと?」 「ん、そういうこと」  小酒井さんは笑い顔を浮かべると軽快な足取りで歩きだす。 「手袋をすると、指輪はできない。いや、指輪を相手に確認させることができない。だから美汐さんは手袋を持っていたのに手袋をしなかった。手袋をできなかった。……きっと美汐さん、今日は何か男の人も集まるような会合に出席したんだろうね」  美汐さんは、美人だ。そんな会合に参加すれば言い寄られることなど数多あるだろう。  でも、それをあらかじめ防ぐ方法がある。  それは――『結婚指輪』をすることだ。  結婚指輪は既婚者の証明。例え美汐さんが美人だったとしても、既婚者に手を出そうという人はそうそういないだろう。嘘が苦手な美汐さんだが、つけているだけで結婚しているという証明になる結婚指輪は男性を遠ざけるにあたって、この上ない意思表示だった。 「でも……美汐さん、男の人と別れて喫茶店に入ってきた時、指輪なんかしていなかったけど……」  美汐さんが入店してすぐに寒さから掌を擦り合わせていたが、その手には何もつけていなかった。私たちに見られても、そういう風に説明すれば良いのだし指輪を外す必要などないように思えるのだが。 「店長がいるから、だよ。瑠璃子もわかると思うけど店長は美汐さんを溺愛している。そんな店長が美汐さんの指輪を見たらどうなるかな?」  ああ、考える理由もない。 「話も聞かないで、暴れだしそうだね」 「ん」と首肯して返す小酒井さん。   「凄い、小酒井さん。あんな小さなことから秘密を暴いちゃうなんて……」  私ではまるで考えもつかなかった答えにたどり着いた小酒井さん。 まるで、本当に探偵だ。  一年前の今日と同じような日、私と小酒井さんが出会ったばかりの時にも似たようなことがあったけれど、もしかしたら小酒井さんはそういう才能があるのかもしれない。 「全然、これはただの妄想。証拠なんて一つもありゃしないからね」 「でも、私はあってると思うけどな」  そう思わせる説得力が彼女の話にはあった。  小酒井さんの言うとおりに当てはめると先に出た意趣返しの件とは違い、何の違和感もないのだ。  美汐さんの性格にも、店長の性格にもぴたりと符合する。私にはこれが正しい解答だと思えてならなかった。 「あ……そろそろ瑠璃子の家だね」  謎は解け、終幕ということだろう。  小酒井さんの言葉通り、数十メートル先に私の家の門が見えた。  冬の夜の小さな推理劇は終わり。名残惜しいけれど、お別れのようだ。 「ごめんね、小酒井さん。ここまで送ってもらって……」 「良いってば、友達でしょ私と瑠璃子は」 「うー……ありがと、小酒井さん」  私は恥ずかしさから小さな声で礼を言う。  小酒井さんはそんな私を見てにひひと笑い、頭を軽く掻いた。 「じゃ、私行くね」  踵を返して、小酒井さんはもと来た道の方へと駆け出す。  長い髪がふわりと跳ね、夜の闇と重なる。 「あ、小酒井さん」  そんな彼女を、思わず止めてしまった。  夜の闇と重なる彼女が、どこか遠くへ行ってしまう気がして。 「っ、えと、その……」  振りかえった小酒井さんは訝しげにこちらを見ている。 「えーと、ね。あの……」  しどろもどろになりながらも、何か言葉を探す。  なんで止めたのか、自分でもわからない。  彼女と出会ってからずっと、こうだ。言葉にしようがない想いがあった。それをどうにか伝えたいのだけれど、いつも踏み切れなかった。 「瑠璃子」  私が何も言いださないのを見かねてか、小酒井さんが口を開く。  真剣な面持ち、綺麗な形の唇がしなやかな動作で言葉を紡ぐ。 「なんでもない」  ……え。 「な、なんでもないってなに!」 「なんでもないはなんでもないよ!」  あはは、と笑いながら小酒井さんは言う。  あーもー、よくわからない。  はたして、はぐらかされてしまったのだろうか? でも……今は自分でもこの気持ちがなんなのかわからないし、良かったのだろう。  時期がきて、しっかりと言葉にできるようになったら面と向かって話そう。 「瑠璃子! 風邪引かないように、はやく家に入りなよ!」  ダメ押し。全く、寒い中ここまで送ってきてくれた人がいうセリフだろうか。  本当に、小酒井さんは優しいというかなんというか。  そんな人だから、大好きだ。 「うん、わかった。小酒井さんも風邪引かないようにね」  小酒井さんは親指を立ててもう一度向き直る。  少し期待したけれど、今度は振りかえることはなかった。  私は、そんな彼女の背中に向けて、小さく手を振った。  優しい、小酒井さん。  冬の手袋のように暖かな、彼女の背中に向けて。  終